同性愛者の性長記録<9−4>

 夜になって自室に籠ってから、ボクはカバンの中から『仮面の告白』を出してベッドに寝転がって読み始めた。

 合計で約200ページあったけど、半分まで一気に読み進めた。

 糞尿汲み取り人の股引きに惹かれた……?

 ジャンヌダルクの絵を見てを「男」だと思ってたのに、「女」だと分かってショックを受けた……?

 タイツをはいた王子が竜に噛み砕かれて死ぬところを想像して興奮……?

 普通の人なら絶対に打ち明けることのできない秘密の部分を、こっそりと読んでいる気持ちになって一気に読み進めた。

『仮面の告白』の率直な感想を言えば、前半と後半とで評価が分かれてしまう。前半部分の幼年期の同性愛者であることの葛藤を描いた辺りは面白かった。ただ園子という女性が出て、女性より男性に惹かれてしまうことに苦悩している後半部分は、あまり面白いという印象を受けなかった。

 特に印象的だったのは次の文章だった。

私が智的な人間を愛そうと思わないのは彼ゆえだった。私が眼鏡をかけた同性に惹かれいないのは彼ゆえだった。私が力と、充溢した血の印象と、無智と、荒々しい手つきと、粗暴な言葉と、すべての理智によって些かも蝕まれない肉にそなわる野蛮な憂いを、愛しはじめてたのは彼ゆえだった。

 この文章に出てくる彼というのは、同級生の不良の生徒のことだ。

 この文章を読んだ時に、自分と全く反対だと思った。ボクはこの小説を読む1年前からずっとある人に恋していた(「同性への憧れと恋愛の境界線」を参照)。それは彼が「智的な人間」だったからだ。彼のことを好きになってからボクが好きになる男性は、いつもほっそりとして大人しい「智的な人間」ばかりだった。でも三島由紀夫は「智的な人間」には惹かれないと書かれていた。

 もしかしたら三島由紀夫は自分が「智的な人間」だと思っていたから、自分と同じタイプの人間に惹かれなかったのかな? ボクは自分のこと「智的な人間」だと思っていない。だから「智的な人間」になりたいと思って憧れて好きになっちゃうのかな?

 そんなことを思いながら読んでいた。どちらにせよボクは三島由紀夫とは好みが全く違うと思った。でも好みは違ってもなんとなく彼が惹かれる気持ちもわかる気がした。

 作品全体としては『仮面の告白』より『潮騒』の方が面白かったと思う。でも前半部分に限って言えば、同性愛者であることの苦悩が赤裸々に書かれた『仮面の告白』の方が圧倒的に面白かった。やっぱりボクも同性愛者だから共感できる場所が多かった。

 少し話が逸れる。昨年、篠山紀信という有名な写真家の展覧会に行った。美空ひばりや大原麗子や夏目雅子など懐かしい有名人の写真(年代的に違うけど実は夏目雅子は好きなのだ)が沢山あった。その途中で少し違和感のある写真が目に入った。

 あっ……三島由紀夫の写真がある。

 その展覧会には三島由紀夫の写真が2枚ほど展示されていた。人の背丈よりも大きな三島由紀夫の写真[*]の前に思わず立ちすくんでしまった。

 1枚は上半身が裸で日本刀を持って構えている写真。

 もう1枚は木に吊るされて上半身を矢で射抜かれている写真だった。

 上半身裸の三島由紀夫を写真を前に、年配の人が「三島由紀夫って切腹した変わった人だよね」と気持ち悪いといった感じでさっさと通り過ぎていた。若いの男性が「三島由紀夫ってホモだったんだよね」とも言っていた。

 ボクは少し離れた場所から2枚の写真をそれとなく眺めてた。特に矢で射抜かれている写真は『仮面の告白』を読んで三島由紀夫の幼少期からの願望を知っていると、なんだか彼の秘密の願望を見させられているようで複雑な思いがした。

私は自分が戦死したり殺されたりしている状態を空想することに喜びを持った。そのくせ、死の恐怖は人一倍つよかった。

 あの小説にはそう書いていた。なんだか写真を見ていると息苦しい思いがした。

 彼はこの写真を撮られている時。撮られた写真の前に立った時。きっと恍惚としていたに違いないと思った。

 ボクは『仮面の告白』を読み終わって、『潮騒』と一緒に本棚の奥の方にしまった。芥川龍之介や太宰治や夏目漱石などの文豪の作品と一緒に並べると、なんら違和感もなく見えた。そう……あまりに違和感がなさすぎて、棚にしまった本人もすっかり忘れてしまっていた。

 ある日、学校から帰ると本棚の配置が変わっていることに気がついた。

 本棚の奥の方にしまったはずの『仮面の告白』や『潮騒』の派手なオレンジ色の背表紙が前面に並んでいた。

<つづく>

[*]横浜美術館ブログ

http://yokohama.art.museum/blog/cat12/cat41/