ゲイブログを書く前後<9>

 ボクは自分のサイトを消した後も、chunkさんのサイトが更新される度に訪れて読んでいた。自分の書いた文章の何が気に入らなかったのかは、chunkさんの書いた文章と比較しているとすぐに分かった。

 よくあるブログの文章で「●●●を食べました」とか「●●●に行きました」など、それはそれで情報としては役に立ったり面白いものもあって目を通すけど、ボクが書きたい文章はなんとなく違っていた。

 ボクが書きたかったのは、文章を書いている人が心の内に秘めているものを、文章を読んでいる人だけにこっそりと吐露しているような文章だった。まるで文章を書いている人と、一対一で会話しているような文章。

 今のボクがそんな文章を書けているかといえば全く自信がない。

 例えば、以下のchunkさんの文章は、ボクがこのサイトで文章を書き始めた後に書かれたものだけど、今まで読んだゲイブログの文章の中で一番心が動かされたものだ。

 

 あぁ……この人は自分の心の奥底に潜っていって文章を書ける人だと思った。

 chunkさんの文章は、ゲイ関連の話題ではないことも多いのだけれど、すっかり惹かれてしまっていた。気がつくと仕事をしている最中に「もしchunkさんが同じ職場にいたら、どんな感じで仕事をしているのかな?」と空想するようになっていた。こんなことを書いてしまうと、chunkさんも驚くとは思うけど、別に恋愛感情を抱いているのではないから安心して欲しい。ただボクと同じゲイだからchunkさんのことが気になっているというよりも、単にchunkさんという人に興味を持ってしまったみたいだ。孤独なんだけど、その孤独に耐える精神的な強さも持っているように思えた。

 このサイトで毎日1年以上、文章を書き続けて漠然と感じてきたけど、心を動かす文章を書くには自分の内面にどこまで深くもぐっていけるかが決め手になると思う。これは文章に限らず、絵を描いたり音楽を作るなど芸術関連ではどれも同じなのかもしれない。集中力とは少し違った「力」だと思う。

 心を動かす文章を書く人は、自分の内面にある真っ暗な深海に静かに潜っていって、その真っ暗な闇の中で「言葉」や「感情」を探して文章を書いているように思う。真っ暗な深海は自分の心の中と向き合う場所。その真っ暗な深海の中で、すごく綺麗なものが見つかることもある。恐ろしく汚いものが見つかることもある。その深海に降りていくには精神的に強くないといけない。今のボク自身もそこまで深く潜れているという自信はない。でも毎日少しでも深く潜ろうと試みて文章を書いている。

 結局、ボクは「ゲイの世界」を茶化して紹介するような情けない文章しか書くことができなかった。自分の内面と向き合う勇気もなかった。自分の内面をさらけ出す勇気もなかった。そして見知らぬ人からコメントをもらって、自分が「書きたい文章」とは程遠い、情けない文章を読まれたことに嫌気がさして、ほうほうの体で逃げ出した。

 ブログさえ立ち上げてしまえば文章なんて簡単に書けるんじゃないかな?

 そう安易な気持ちでパソコンの前に座って書き始めたけど、もう二度と文章を書きたいとは思わなかった。

 1つ目の歯車の『ボクの彼氏はどこにいる?』を読んで、自分が「読みたい文章」は見つかった。そして2つ目の歯車のchunkさんのサイトの文章を読んで、自分が「書きたい文章」は見つかった。

 でもこのサイトを始める2つ目のきっかけとなった歯車が回り始めたと思ったら緊急停止してしまった。せっかく作成したサイトは消滅してしまった。

 じゃあ「なんでこのサイトを始めたの?」というと、最後にもう1つだけ3つ目の歯車がある。それは2016年の11月27日の出来事だった。
 
<つづく>