LGBTの社会活動との関わり<3>

 やっぱり……観るんじゃなかったな……

 ボクはこの映画を観たことを後悔していた。

 無音のエンドロールが終わってから、ボクは映画館から飛び出して足早に西鉄天神駅に向かった。

 KBCシネマは博多湾の近くあって人も見当たらなかったけど、駅に近付くにつれて徐々に人が多くなってきた。西鉄天神駅の中央改札口前のエスカレーターに乗って改札口をくぐってから、ホームに止まっていた電車に飛び乗ると、すぐに発車した。終電に近い時間帯で、花見や飲み会の帰りと思われる客が多くて満員状態だった。ボクは車両の間に移動して壁にもたれて、さっき見た映画のことを思い浮かべていた。

 映画の舞台は1990年代のパリ。HIVに感染した人達や家族が、政府や製薬会社を相手に激しく戦って社会活動をしている内容だった。1990年代のフランスはHIVの感染が深刻な状況で、まだ現在のような進歩した薬も登場していなかった。政府のHIVへの対策も不十分な状態だった。その社会活動を通して出会ったゲイのカップルが主人公だった。片方のゲイがHIVに感染していた。もう片方のゲイの方は感染はしていないけど、過去にHIVに感染して亡くなった恋人がいて、そういった経緯から社会活動に参加していた。現在のような薬がないため免疫力が急速に落ちてしまう。映画の終盤、社会活動の道半ばで片方の主人公の亡くなってしまった。

 映画の内容自体は面白かった。

 でも今の自分の精神状態では、面白かったというよりも、なんだか途方にくれてしまうだけだった。映画館に行く前に「ある場所」に行ったけど、この映画の内容が「ある場所」と関連しているように感じたからだ。なんとなく映画のあらすじを読んだ時から、こうなることを予感していて観るべきか観ないべきか迷う気持ちもあった。でも観ないで後悔するよりも、観てから後悔した方がいいと思って映画館に来てしまった。「後悔するかも?」と予感はしていたけど精神的なダメージは大きかった。

 やっぱり……ゲイであることをカミングアウトして社会活動をするべきなのかな……
 
 これから先のことを考える度に、何度も頭の中に浮かんでいたことだった。

 これが東京だったら、もう少し状況は違うのかもしれないけど、福岡市から離れた田舎に住んでいるボクにとっては、それしか選択肢がないように思えてきた。

 なんだか自分がそもそも何をしたいのか分からなくなってきていた。

 それから先日、福岡市役所で開催されたLGBTのシンポジウムの登壇者の人たちのことを思い浮かべていた。

 でも……ボクはあの人たちのようになりたいという気持ちは全くないんだよね……

 彼らの姿は必ずしも自分のなりたい未来の姿ではなかった。

 ゲイであることをカミングアウトして、何か社会運動を続けていれば自然の流れでゲイの人たちに見えやすい所に立つことになるだろう。確かにカミングアウトは怖いけど、今のボクなら乗り切れると思う。twitterで実名を名乗るのもいいだろう。顔写真を載せるのもいいだろう。そうすれば多くのゲイの人と知り合うことができて、もしかしたら出会いもあるかもしれない。

 ただそれはおかしいと思う。出会いを求めるために社会運動をするのであれば、「目的」と「手段」の選択が間違っていると思う。それに「社会活動をしたいか?」と問われれば「興味がない」。
 
 あの映画の登場人物達は、HIVに感染して自分の死というものに直面しているから必死だった。

 ボクには社会活動に必死になる理由はなかった。そもそもゲイだから不当に「差別」を受けたと思ったことがなかった。「いじめ」は受けたことになるのかもしれない。でも確かに子供の頃に嫌も思いを沢山したけど、それでも「差別」や「いじめ」を受けたという気持ちにはなれなかった。

 なぜ「差別」や「いじめ」を受けたと思わないのかというと、ボクも同じような「差別」や「いじめ」をしたことがあるからだと思う。

<つづく>