LGBTの社会活動との関わり<4>

 大半の乗客は大橋駅と二日市駅で降りていったので空いた席に座った。ボクの住んでいる街はまだずっと先にあった。

 ボクは中学時代や高校時代に「いじめ」を受けていた。

 ただ、いじめを受けたけど、ボクが「ゲイ」だったからいじめを受けた訳ではないと思っている。

 まぁ……ボクをいじめるんだったら「ホモ」の箇所をいじめてくるよね。

 そう当然のように思っていた。その点に関しては、そもそも深い考えもなく軽率にカミングアウトしてしまったボク自身にも責任があると思っている。

 中学時代や高校時代、「いじめる側」と「いじめられる側」がクラス内で順番に回っていた。

 今日は「いじめる側」だった人間が、数日後には「いじめられる側」に変っていたりした。そんな感じでクラス内で順番が交互にまわっていたように思う。ある日、ようやくボクの「いじめられる側」の順番が始まったという認識でしかなかった。ただ……予想よりも期間が長かったけど。

 いじめに対して下手に抵抗するよりも、黙って時間が過ぎるのを待っていればいい。そのうち「いじめる側」も飽きて、もっと別の対象の「いじめられる側」の生徒を探すだろうと思っていた。そして「いじめられる側」の順番が別の生徒に移った時、ボクも一緒になって「いじめる側」にまわっていた。

 他の生徒のように表立って一緒にいじめはしなかったけど、何もしていないかと言えば嘘になると思う。誰も傷つけたことがないなんて言うことはできない。

 そんなことをしていたボクが「ゲイの人をいじめるのは止めよう」なんて言うことはできない。

「差別」の点に関しても思い当たることがある。

 ボクは大学2年生の時、インターネットのゲイ向けの出会い系掲示板を通して、ゲイ仲間と出会った(『同性愛者の友達が欲しい』を参照)。「イサムさん」というゲイの人だった。そして待ち合わせ場所の公園に現れたイサムさんは、なんと「女装子」だった。

 ボクには女装している人の気持ちが全く理解できなかった。

 ゲイで女装している人がLGBTの「T(トランスジェンダー)」にあたるのかどうかといえば分からない。そもそもボクはイサムさんとメールのやり取りはしていたけど、踏み込んで女装している理由を訊いたことがなかった。ありきたりな雑談しかしたことがなかった。

 ただ頭の中では、「ボクは普通のゲイでよかった」と優越感のようなものを感じていなかったと言えば嘘になると思う。女装子のイサムさんを下に見た気持ちを抱いたことがないなんて言うことはできない。

 そもそもLGBTという括り自体が好きではないけど、LGBTの中でも「G」のゲイに関しては、世間の理解は進んでいるように感じている。じゃあ「L(レズビアン)」はどうだろう。「B(バイセクシャル)」はどうだろう。一番生きづらそうな「T(トランスジェンダー)」はどうだろう。そもそも抱える問題が違っていて「LGBT」という言葉でくくってしまうのが無理があるのかもしれない。「G」のボクには「T」の人が抱えていることが理解できなかった。

「あぁ……ボクはゲイくらいで済んでよかった」

 そんなことを考えていたボクが「LGBTの人を差別するのは止めよう」なんて言うことはできない。

 過去に「いじめ」や「差別」をしたことがあったら、社会活動をしてはいけないとは思わない。そんなことを気にしていたら何もできなくなってしまう。でも僕には無理だと思った。自分が「いじめ」や「差別」をしているのに他人に対して意見する権利なんてないと思った。

 それにボクはゲイ当事者以外には見せたくない部分が、ゲイの世界にあるのを知っている。

 一部のゲイの人たちが、銭湯やサウナでやっていることを知っている。

 一部のゲイの人たちが、野外の公園や公衆トイレでやっていることを知っている。

 一部のゲイの人たちが、最近は見かけなくなったけど「ラッシュ」という薬物を多用していたことを知っている。

 そういったゲイ当事者以外には、あまり見せたくない世界があるのを知っている。

 それにボクにはゲイによってレイプされた友達がいた。

<つづく>