ボクは子供が怖い。
でも、それは子供が「嫌い」という意味ではない。むしろ子供は「尊敬の念」や「畏敬の念」を持って接するべき存在だと思っている。子供と会話する時は、大人と会話する時よりも、よほど神経を使って接している。
子供から「謎の微笑み」を向けられることがある。
例えば、コンビニでレジ待ちをしていて、前に親子連れが並んでいる場面。
母親がお金を払っていている間に、手をつないでいる女の子が、後ろに並んでいるボクの方に振り返って、目が合うと、「へへへっ」と謎の笑みを浮かべてくることがある。
例えば、街中で歩いていて、赤ちゃん連れの家族とすれ違う場面。
抱っこされている赤ん坊とすれ違いざまに目が合うと、「きゃははっ」と謎の笑みを浮かべてくることがある。
彼らの「謎の微笑み」と遭遇する度に、
『お前がホモなのは知ってるんだぞ』
ボクは自分の正体を全てを見透かされた気分になる。彼らから「謎の微笑み」を向けられる度に、彼らの前に土下座して「後生ですからアウティングするのは止めてください!」と、すがり泣きたくなる。
そういえばボクは自分が子供の頃から、なぜか年下の子供と話す時に「丁寧語」で接していた。
他に大人がいる場面では、
「あっ……そっち行ったら危ないよ」
と、子供に声をかけている。
それが、他に大人がいない場面では、
「あっ……そっち行ったら危ないですよ」
と、自分より年下の子供に声をかけているから不思議だ。
彼らに声をかけつつも「ボクはなんで年下の子供に対して、大人よりも丁寧な口調で声をかけているんだ?」と疑問に思っていた。
実家に帰省して甥と話す時も、きちんと「●●君」付けで呼んでいる。でも本当は「●●さん」と呼びたい思いに駆られるいる。それは周囲から見れば違和感がありすぎるので、「●●君」と声をかけつつも、心の中でだけ、「●●さん」と呼びかけているようにしている。「●●ちゃん」なんて、恐れ多くて呼ぶこともできないし、「でちゅねー」なんて語尾で呼びかけることも到底できない。
まだ子育てを経験したことがないから、子供との接し方が分からないだけなのかもしれない。でもボクはゲイだから子育てをする機会はないだろう。だから一生、子供に対して頭が上がらないまま、終わるのかもしれない。
子供の怖さというものは、予測のつかない言動や行動にある。
大人であれば「これは相手に言ったらいけないよね」ということを、なんとなく場の空気を読んで控えるようになる。でも子供には、そういったハードルはない。思ったことを素直に「口」や「行動」に出してくる。
恐らく、近いうちに甥の口から、
「なんで、おじちゃんは独身なの?」
「もしかして、おじちゃんはホモなの?」
と、質問される日も訪れるだろう。ボクは『面白いほど子供と会話ができる一問一答』といった問題集を早く作成して、暗記して置かなくてはいけない。
そんな訳では、ボクは子供が恐るべき存在だと思っている。
そして今回書くのは大学3年の頃。京都駅から実家に向かう新幹線の中で起こった出来事だ。
<つづく>