幸せについて思うこと<3>

「運動」とは言っても、そんなに真面目に運動らしい運動はしていない。

運動らしい運動といえばプールで「水泳」をするくらいだ。後は「ウォーキング」をするくらいだ。雨の日以外は、よっぽど仕事が遅くならない限り、毎日近所を歩いている。

今。ちょうど夏から秋に季節が移り変わっている時期。

ボクにとっては「ウォーキング」というよりは「散歩」に近い。耳にイヤフォンをつけて音楽を聴きながら歩いている。大体、一時間くらい歩いている。この一時間はボクにとって大切な時間だ。

少し話が逸れるけど、このサイトの文章に何を書くか考えるのは、この歩いている時間が一番多い。先日、いきなり書いてしまった高校時代にS君というクラスメイトから言い寄られた話も、もともと彼のことを書く予定なんて全く無かった。ただボクの前を歩いている、部活帰りの中学生たちが戯れ合っている姿を見て、S君のことを突然に書こうと思った。

恐らくというか……間違いがないのだけれど、この一時間が存在しないと、このサイトは成り立たなかったように思う。

翌朝、机の前に座ってから、どこまで文章を書くのかは決まっていないけど、ぼんやりと何を書くかは、こうやって歩きながら決めているように思う。

こうやって散歩していると、顔見知り会うことが多い。

同じ職場の人。近所に住んでいる顔見知りの人。いつもの公園で遊んでいる子どもたち。

クロネコの宅配員さんには、すっかり顔を覚えられてしまっていて、歩いている姿を見かけると車を停めて挨拶してくる。ちょうどボク宛の荷物がある時は、そのまま道端で受け取ったりする。少し恥ずかしいけど、わざわざ家まで持ってきてもらうのも大変だと思うので、荷物がよっぽど重くない限りは受け取るようにしている。福岡県のある街で、Amazonの箱を持って歩いている不審な男性を見かけたら、それはボクかもしれない。

少し前まで「夏」だった。

仕事場から帰って料理の下ごしらえをして、19時過ぎに歩きだしても、まだ空は明るかった。夕暮れがとても綺麗で、コケないように注意して空を眺めながら歩いていた。夕日に照らされた雲や、遠く山の稜線を眺めて楽しんでいた。

そうやって歩いていると、子供の頃。夢中になって遊んで、すっかり夕暮れになってしまって、暗くなる前に家まで走って帰っていた姿を思い出す。

それから季節が流れて「秋」になった。

日が暮れるのが早くなって、19時過ぎに歩き出したら、空は暗くなっている。もう夕暮れは見えなくなってしまっている。そんな状態だから月や星を眺めるくらいしか、景色を楽しむことはできなくなった。ただ景色は見えなくなったけど、別の楽しみがあることに気がついた。それは通りの家々から漂ってくる夕ご飯を作る匂いだったりする。「この家は焼き魚かな?」とか「この家はカレーかな?」とか「この家は肉じゃがかな?」と、ボクの住んでいる街は、まだ古い様式の家も多く残っているから料理を作っている匂いが窓から漏れてくる。

そうやって歩いていると、子供の頃。近所の家のいたるところから料理を作る匂いが漂っていて、その匂いを嗅ぎながら自分の家に帰っていた姿を思い出す。

夏には視覚的な楽しさがある。

秋には嗅覚的な楽しさがある。

ふと、草むらからコオロギの鳴き声が聞こえてくるのに気がついた。イヤフォンを外して耳を澄ませながら歩く。

音楽を聴くことに夢中になって聴覚的な楽しさを忘れていた。

虫の声に耳を澄ませて歩いていると、通りの家々から、話し声。料理を作る音。テレビの音。が聞こえてきた。

そうやって歩いていると、子供の頃。ついさっき別れたばかりの友達が母親から怒られている声や、その母親に文句を言っている友達の声が家の中から聞こえたりして、クスクス笑いながら自分の家に帰っていた姿を思い出す。

今は聞こえなくなってしまった蝉の鳴き声を聞き逃してしまったことを悔やんでしまう。

そうやって歩いて考えていると、ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』に書かれた、

人々は絶望的な苦境から脱することができたから、今度ははっきりとした「幸せ」を手にすることを目標とする。

という言葉が頭をよぎった。

<つづく>