この回が放送された時、確か小学校の4年生くらいだったと思う。一人で居間のテレビの前に座って泣きながら見ていた。
アニメ『クッキングパパ』の全ての回が、ここまでクオリティが高いわけではないけれど、それでも他にアニメに比べて。一人一人の登場人物が大切にされていた。登場人物たちの些細な感情の結びつきが、とても丁寧に描かれていた。
例えば、赤ちゃんを生んだ母親のために夫と息子が川で鯉を釣ろうする回がある。
結局は大物の鯉を逃がしてしまい、店で代わりの鯉を買ってくるのだけれど、夫と息子が鯉料理を作りながら、「次こそは絶対に釣ろうね。父ちゃん。男同士の約束だよ」と言って、息子は赤い顔になって「鯉を食べたら母ちゃんのおっぱいが沢山出るんだよね」と言う。そんな夫と息子の台所での会話を、母親は布団の上で寝たふりをしながら最高に幸せな顔をして耳を澄ませて聞いていたりする。
よくあるような戦闘アニメも嫌いではなかったけど、それよりも断然に人間同士の些細な感情の結びつきを描いている方が面白いと思った。
このアニメを見ながら、
幸せだと感じること。面白いと感じることは、平凡な日常生活の繰り返しの中に落ちているのかもしれない。
と思うようになった。これは『幸せの青い鳥』の話と似ているのかもしれない。
ヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』に書かれた、
人々は絶望的な苦境から脱することができたから、今度ははっきりとした「幸せ」を手にすることを目標とする。
という言葉を読みながら、ボクがまっさきに思い浮かんだのが子供の頃に見た『クッキングパパ』だった。
別に家族に限らず、宅配業者の方との何気ない会話だったり(少し前に雨の中、仕事が終わって歩いて帰っていたら宅配の方が車を止めて’家まで乗せてあげますよ’と言われた。恥ずかしくて断ったけど)、職場の仲間たちとの何気ない会話の中に、幸せだと感じること。面白いと感じること。それが普通に落ちていることに気が付いた。
このブログを書き始めた当初、ボクは自分がどこに行って、誰と会っていたのかという事実だけを書こうとしていた。でも、よくよく考えてみれば、ボクに限らず、ゲイの人であれば多くの人が、有料ハッテン場に行ったことはことはあるだろうし、出会い系の掲示板を使ったことはあるだろうと思った。
どこに行ったのか。誰と会ったのか。という事実よりも、ボクが何を感じたのかという感情を中心に書いた方が面白いのかもしれない。
そう考えた時、このブログ上に書くことは。書くネタが尽きるということが無くなってしまった。
ちょうど、この文章を書いている途中に、このサイト内で何度も書いているノンケの友人の誕生日を迎えた。
毎年恒例の誕生日祝いのメールを送った後、いつも通りに「ありがとう」という文面のメールの返信が来ると思っていた。
そう思って彼から届いたメールを開くと
ありがとう。実はメールが来るのを少し楽しみにしていました。
と書かれていた。
彼からのメールを受け取ったボクは間違いなく幸せだった。同じ日に、もう一つ幸せだと感じる出来事があったけれど、今は内緒にしておく。
<終わり>