喫茶店を出て京都駅の構内を横断して、烏丸口のバスのりば前までたどり着いた。
ボクはバスに乗って家まで帰るつもりだった。彼の方は一旦ホテルに戻って荷物をまとめてから左京区の学会の会場に行く予定だった。
「もしよかったらだけど君が実家に戻ってきたら、またどこかのホテルで会ってくれない?」
バスのりばとホテルの分岐点に立って別れる間際に彼から言われた。
なんとなく予想していた誘いだった。
彼にとってボクは初めて同性と肉体を重ねた相手で、その上、彼が密かに抱いていた欲望をさらけ出してしまった相手だった。
もう彼が性的な欲求面でボクに隠していることなんてほとんどないだろう。病気を持っていなくて陸上のユニフォームを着て、年下の子から責められたいというという願望を叶える相手として、ボクは最適な相手なはずだった。
彼のことは嫌いじゃなかった。むしろ好きなタイプだった。
もし彼が同じゼミやサークルにいたとしたら普通に恋してしまっていたかもしれない。そんな予感を感じの人だった。
でもきっと彼はボクのことが好きな訳じゃないと思っていた。
ボクは彼の都合のいい性処理道具として扱われたくなかった。
ただの彼にとって好都合な寝る相手として扱われるのじゃなくて、ちゃんとボクのことを見て欲しかった。もし彼がちゃんとボクのことを見て誘ってくれていたら、きっと不倫になろうがどうであろうが、その先に明るい未来はないとしても実家に戻って彼と会ったと思う。
「うーん……」
「そっか……じゃあ。またいつかどこかで会おうね」
どう応えていいものか迷っていると、彼は気持ちを察してくれたようだった。
「そうですね。じゃあまたいつか」
またいつかどこかで会おうね。またいつか会いましょうね。
大学時代。そういった言葉を交わして別れた人は何人もいたけど、もう二度と会うことはなかった。ボクにとっては「もう二度と会うことはない」という意味と同義だった。
お互いに傷つかないように別れるには便利な言葉だった。
彼と別れてからバスに乗ってると、口の中には未だにエスプレッソの苦味が残っていた。
苦い味って結構いいかもしれない。
そんなことを思った。
この日エスプレッソを飲んでから、ボクは徐々に苦い味が好きになっていった。いい大人になった今のボクならエスプレッソもそれなりに美味しく飲むことができるようになっている。ボクはブラックコーヒーが好きになっていて、今では「苦い」という味のよさも分かるようになった。
その日の昼。結局、家に帰っても眠気が襲ってくることがなく、そのまま大学に行って寝ぼけたまま講義に出て本を読んでサボっていた。昼休みに入る間際に携帯電話のメールの着信音が鳴った。
メールを開いて見ると彼からだった。
無事に学会発表が終わりました。今から新幹線で◯◯に戻ります。昨日の夜はありがとう。いつか会おうね。
すぐに彼にメールの返信を送った。
こちらこそ元気でいてくださいね。またいつか会いましょうね。
あれからもう10年以上の月日が流れた。
ボクは一度だけ見てしまった彼の名前を未だに覚えている。でも彼の方はボクの名前を覚えていないと思う。
たまに高校時代に好きだった先輩と一緒に彼の名前もネットで検索して、どこの病院で働いてるのか確認している。どこかの病院のホームページやどこかの学会の抄録上で、彼の顔や名前を見かける度に、あの日のことを思い出す。
そして彼の真面目な顔をした写真を見かけると
真面目な顔しちゃってさ。ボクはあなたの密かな願望を奥さんよりも知ってるんだぞ!
と微笑みながら眺めてしまう。
<つづく>