絶対に会えてよかった<80>

彼の乗った車が西大路通を右折して南に下っていくのを見送ってから、ボクは家に帰るために夜道を歩いた。そして彼と出会ってから別れるまでの一連の出来事を思い返していた。

そして恐ろしいことに気がついてしまった。

ついさっきまで会っていた彼の顔をはっきりと思い出せなくなっていたのだ。

どんなに頑張って思い出そうとしても、ぼんやりと「こんな顔だったけ?」としか思い出せなくなっていた。そのぼんやりとした顔の輪郭さえも記憶から急速に薄れていった。彼から聞いた話の内容も急速に記憶から薄れていった。

さっきまで会っていた人は、この世に本当に実在してたんだろうか?

自分は夢でも見てたんだろうか?

そんなことを考えて急に怖くなった。

ボクの中で「女装を希望してきた人」や「京都駅近くのホテルで会った人」など、はっきり顔も話した内容を覚えている人もいれば、今回のように「本当に実在していたんだろうか?」と思う人が何人かいる。そういった人たちの「顔」も「話した内容」も、別れてからすぐに記憶から消えかかっていった。

彼と出会ってから1時間で京都と大阪の境あたりの山奥まで行って京都市内まで戻ってきた。その後、1時間で京都市の南西にあるラブホテルまで行って、待ち合わせ場所の金閣寺まで戻ってきた。本当にあっという間の出来事だった。自分がどこに連れていかれたのか、はっきりと分かっていないから、もう一度、あの山奥とラブホテルに行けと言われても、もう二度と行くことはできなかった。

今となって振り返ってみると「この時期はかなり危険なことをしていたな」と思う。

どこか見知らぬ土地に放置される可能性だってあったはずだ。一歩間違えば見知らぬ家に連れ込まれて複数で襲われる可能性だってあったはずだ。

ただ、今となっては浅はかに見えるけど、ボクにとっては貴重な経験だったように思う。そういった失敗と後悔を重ねながら、徐々に大人になっていって、そのうちラブホテルに泊まってみたいという子供じみた願望も消え去ってしまった。社会人になって年齢を重ねるごとに、ボクはどんどん慎重になっていって大胆な行動ができなくなっていった。そういった意味でも、この時期の経験があってよかったと思う。

結局、ボクは彼を相手に「体」の準備はできたけど「心」の準備はできていなかった。仮面をつけたまま彼の相手していた。こんな不毛な出会いと別れを、いつまで繰り返すんだろうと不安に感じていた。そのうち「もう無理だな」と思って、一人で生きていくことに決めて、仕事にのめり込んでいった。

ボクの記憶には、ただ山奥とラブホテルに行ったという思い出だけが残った。彼の顔も会話の内容も残らなかった。きっとあの人の記憶の中にも、ボクの顔も会話の内容も残っていないと思う。

<つづく>