絶対に会えてよかった<95>

彼は上の階からボクと同じ場所までゆっくりと降りてきて「また今度会おうね」と言って抱きしめてくれた。ボクの方も「また金曜日の夜に来ますね」と言って抱きついた。ボクらはいきなり下の階から人が来たり、入り口のドアが開いて人が出てこないか、人の気配を探りながら抱き合っていた。

しばらく抱き合ってから体を離したついでに別れの握手をした。

彼の手は冷たくて少し深い皺が入っていた。30代の手と違って年相応に少しだけ皮膚がたるんでいるように感じた。彼の顔をみると首や目尻にも年相応にシワがあった。そんな点も含めてボクは好きだった。なんだか若い人にはない魅力を感じていた。

「やっぱり。本当に帰っちゃうの?」
「はい。明日仕事なんで帰ります」
「せっかく会えたのに……」
「すみません……」
「君の分の入場料くらい払ってあげるよ」
「お金の問題じゃないんです」

ここら辺、ボクの方はかなり頑固だった。

ボクの中では「性欲」よりも「きちんと日常生活を過ごす」ことの方が優先順位が高いのだ。

「そちらも遅くなって奥さんにバレないようにしてくださいね」
「うん。分かった」

そう。彼は既婚者だった。

この店から彼の家は近かったけど絶対に行くことはできなかった。家には奥さんもいた。そして子供も二人いた。もちろん奥さんも旦那がゲイであることは知らない。子供も父親がゲイなんてことは知らなかった。家族には「金曜日は仕事で遅くなる」と説明してから有料ハッテン場に通っていると聞いた。

彼は「じゃあ。またね」と言って階段を上っていって、すごく慎重に入り口のドアを開けた。新しい客の入店を知らせるためにドアの上についているベルは全く鳴らなかった。

初めて彼と店で会った時、ボクはいきなり店内に新しい人がいたことに驚いた。彼がいつ店に入ってきたのか全く気がつかなかったのだ。彼から誘われて寝ている途中に「何時頃に店に来たんですか?」と気になって質問してみた。彼からは、とっくに入場制限の年齢をオーバーしているから、他の人に悟られないように物音を立てないように、こっそり店に入っていると聞かされていた。ロッカーを開け閉めする音も立てないようにしていて、休憩室のように明るい場所にも絶対に寄り付かないと言っていた。

そんなドアを慎重に開ける彼の姿を見ていて身につまされてしまった。

今の彼の姿が10年後の自分の姿のように感じられた。

ボクは彼が店に入っていくのを見送ってから階段を降りて家路についた。

「もう少し早く来てくれたよかったのに……もう少し待ってたらよかったな……」

そんな後悔をしつつも夜道を歩いていた。

でも、帰り際だったとしても彼に偶然に会えたこと嬉しかった。

彼がボクのことを覚えてくれていたことが嬉しかった。

そしてまた会いたいと思った。

<つづく>