セザンヌの絵を見て衝撃を受けて会場から出た後、この衝撃的な感覚をどこで味わったように感じて、高校時代の同級生が描いた絵を見たときの衝撃と同じだと気が付いた。
ある日、自分の世界が突然に広く開けて、それまで分からなかったものの凄さが分かるようになった時の感動。
ようやく高校時代のあの感覚と再会できたような気がして嬉しかった。
これは絵に限らない話だけど、絵にしても小説にしても歌にしても、そういった創作物の全般に言えることだけど、ボクは触れてみてすぐに理解できるものがあまり好きではない。
触れてみてすぐに理解できるものは飽きるのも早い。逆に最初の頃は何がいいたいのかさっぱり分からないと思ったものの方が、よさ分かってから後になかなか飽きが来なかったりする。それまで分からないままだったのに急に分かるものもある一方で、そのまま分からないままで終わってしまったものもある。それはそれでいつかわかる日がくるかもしれないと楽しみにしている。とにかくボクにとって絵を見ることは、テレビを見たりゲームで遊ぶよりもよっぽど楽しい。
触れてみてすぐに分かるものと、触れてみてすぐに分からないもの間に存在する違いの一つに「これは何なんだろう?」という疑問のような問いかけがあるように感じている。最近はすぐに答えが分かるようなものばかりが溢れていて、なんだか飽きてしまった。
「これは何なんだろう?」
と、そんな新しい問いかけが生まれるようなものが好きだし、そういったものを求めてしまう。
ちなみにセザンヌ以外にもう一人『マネ』という画家の描いた絵のよさも分からなかったけど、ある展覧会でマネの描いた静物画を見て同じような感動をして理解できるようになった。もちろん理解できるようになったと言っても、例えばセザンヌの描いた絵でも、全ての作品がいい訳ではない。いい絵があれば悪い絵もある。モネの作品を集めた展覧会に行って、あまりにできの悪い作品ばかりでがっかりした経験もある。
セザンヌの『水の反映』にしても、今見たとしてもあの時ほどの感動は味わえないだろう。
高校時代の同級生の描いた絵にしても、今見たとしてもあの時ほどの感動は味わえないだろう。
あの時期の、あの瞬間だからこそ感動できたのだと思う。
あの一瞬の感動は、自分の中の意識しない領域まで沈んでしまっている。でも決して消えることなく残っていると思う。
それはクラシック映画をひたすら見続けたり。児童文学書をひたすら読み続けたりした経験も同じだ。今となっては、この映画を観たとか、この児童文学書を読んだとか、そういったことを漠然と覚えているだけで詳しい内容も忘れてしまった。むしろ忘れてしまったほうが価値があるのかもしれない。忘れて意識しなくなったほうが、むしろボク自身の中に深く刻まれているような気がする。
今は意識できない無意識なレベルにまで達したものは、こうやって文章を書いているボク自身を構成する一部になっているはずだ。
<つづく>