往復書簡

このサイトに文章を書き続けて、毎週のようにポツポツと読者からメールをもらうようになった。


メールの相手は、ボクと同じようにブログ上に文章を書いている人もいれば、長く読者として読み続けている人もいる。日本に住んでいる人もいれば、海外に住んでいる人もいる。


そんな中、メールを受け取ってから、返信の文章の内容を考えるのに数時間。返信の文章を書くのに数時間かかったりする。気が付くと返信の文章を書くのに夢中になっていて、


「ボクにとって、『このサイトに文章を書く行為』と『メールの返信に文章を書く行為』の、どっちが『文章を書く行為の母体』になっているのか分からないな……」


と苦笑いしていたりする。


このサイトに文章を書いている時間が毎日1時間弱くらいとすれば、その倍以上の時間をかけてメールの返信の文章を考えて、実際に書いていたりする。使っている時間だけで言えば「メールが『主』でブログが『従』」のような上下関係ができてしまっていたりする。


「このサイトに書いている文章よりもメールに書いている文章の方が面白い」と思う瞬間もある。


そもそもボクは当意即妙に会話するのが苦手だ。


かなり後になってから「あの時にこう言えばよかった」と後悔することが多々ある。


そういった性格をしているからtwitterやLINEのようなSNSを使ってみたものの、ボクには向いていないと判断した。LINEに関していえば家族や職場のメンバーも含めて非公開にしている。やり取りしているのは付き合っている彼だけだ。メールと言う形が、ボクの性格には一番合っていると感じている。


先日、二冊の本を読んだ。


『遺言 対談と往復書簡』 著:志村 ふくみ、石牟礼道子

『緋の舟 往復書簡』  著:志村ふくみ、若松英輔


両著にある『往復書簡』というタイトルの通り、著者2名の手紙のやり取りを書籍にしている。


一冊目は染織家の志村ふくみさんと、作家の石牟礼道子さんとの手紙のやり取りをまとめた本。

二冊目は同じく志村ふくみさんと、批評家・随筆家の若松英輔さんとの手紙のやり取りをまとめた本。


特定の誰かに宛てて書いた文章は興味深く、まるで二人だけの秘密の会話を、そっと傍で聞かせてもらっているような気持ちになった。


二冊目の本に関して、著者の若松英輔さんが言っていたのだが、書籍化されている手紙のやり取りとは、別の手紙のやり取りが、志村ふくみさんと若松英輔さんとの間で交わされていたようだ。公開されている手紙の補足だったり、あいさつ文だったりと、短い文章ではあったものの、書籍化されている手紙よりも、非公開の手紙の方が受け取った方が、よっぽど嬉しかったと若松さんは語っていた。恐らく一冊目に関しても同様で、著者の二人の間に非公開の手紙のやり取りはあっただろう。


特定の誰かに宛てて文章を書くのは楽しい。


そして、この2冊の本を読んで特定の誰かに宛てて書いた文章をこっそりと読ませてもらうのも楽しいと思った。


このサイトに書いている文章も、ボクの頭の中では、「ここはあの人に向けて書く」「そこはあの人に向けて書く」と分けて考えながら書いている部分はあったりする。以前、このサイト上で『兄貴への手紙』というタイトルにして、自分の兄に向けた手紙を書いてみたけど、もう一度、誰かに宛てた手紙を書いてみたいと思った。


それで「手紙の相手は誰にしようか?」と考えてみたのだけれど、「自分に宛てて書くべきか」。「付き合っている彼に書くべきか」。もしくは「特定のゲイの人に書くべきか」、もしくは「存在しない架空のゲイの人を創造して書くべきか」と、いろいろと考えている。


そうやって手紙を書くだけでなく、誰に宛てて書こうかと考えること、手紙の内容を考えることも楽しかったりする。


また手紙を書いてみたい。


一方通行で相手からの返信はなく『往復書簡』という訳ではないけれど、いつか誰かが返信を書いてくれるかもしれない。