ライナーノーツ<2>~出逢いたくなかった人~

「人は成長するにつれて自分と似たような人間が周囲に増えてくるのかもしれない」


小学校の頃は、いろんな諸事情を抱えた人が周囲にいた。その背景は様々だけど、まだ子供ということもあって本人よりは育てられた家庭の問題が背景に多かったように思う。とにかく多種多様な人がいた。


ボクは「この人たちと自分は違う」と心のどこかでホッとしていた。


ボクにはちゃんと両親がいて、ある程度恵まれた環境で育ててくれた。彼らと自分を比較して、そのことに気が付いて両親に感謝した。


それから中学校に上がり、いくつかの受験を経て、そういった人たちの姿は徐々に消えていった。ふるい落とされるかのように周囲から姿を消していった。そしてボクはそういった人たちがいたことも忘れてしまって意識しなくなった。


社会人になってどこかの組織に属すようになってから、ますます自分の周囲には似たような考えや家庭水準の人ばかりがいるようになった。組織の理念を共有して運営するために、ある程度は似たような人が集まる必要があるのかもしれない。それに組織から支給される給与も似たような金額だから、当然と言えば当然なのかもしれない。


そんな中、大学時代からゲイの世界に足を踏み込んで、いつの間にか目の前から消え去った人たちと再会したように感じた。


それまでのボクの人生の中で出会ったことのない種類の人が沢山いた。小学時代に出逢った同級生よりも、もっと年齢層も幅広く、社会的な立場も幅広く多種多様だった。


ヤクザのゲイもいた。


宗教関係者の偉い立場のゲイもいた。


ゲイビデオを見せてあげると言ったおじいちゃんもいた。


ボクと同年齢の大学生もいた。


銭湯や野外のハッテン場でギラギラと目を光らせているゲイも沢山いた。


ゲイという共通のカテゴリーは、ボクに今まで高校生活や社会人生活を送っていただけでは会えないような人たちと出会う機会を与えてくれた。それは良い出会いもあれば、もちろん悪い出会いもあった。それに学校や会社で目にする「公の姿」だけでなく、ゲイの側面や性欲といった人間的な「私の姿」を生々しく見せてくれた。ゲイという共通カテゴリーを活かして垣根を超えた出会いを楽しむこともできるように思う。ただ、ボク自身は幅広く人と付き合う方ではなかった。


ゲイ同士なら分かってくれるよね?


そんなボクの甘い考えを、京都の堀川通りで出会った人は打ち砕いてくれた。彼は『出逢いたくない人』だったけど、ボクの中で「ある重要な問い」を残してくれたように思っている。


それは「同じゲイというカテゴリーの人たちの中で、どうやって自分と同じような価値観の人を探せばいいのだろう?」というものだった。

 

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