ゲイとして生きる場所を作ること<1>

 少し前に以下の文章を書いた。

 

 この文章を書いた後、ボクが故郷に何の後ろめたい気持ちもなく堂々と帰れるのはいつになるのだろうと考えてみた。これは少し書きにくい話になるのだけれど、きっとボクが故郷に安心して帰れるのは、恐らく親が亡くなった時だろう。ただその時には、もう故郷に帰る必要も無くなっているのかもしれない。親が亡くなれば、故郷の友人や知人に、ボクがゲイだと噂されようが関係がない。前にも書いたけど、ボクは両親を好きだし大切に思っている。でもボクの中で鎖になっているとも思っている。親がいるからボクは同性愛者として、好き勝手に生きていくことができない。かといって親を捨ててしまうこともできない。もし親という鎖が無くなったら、どうなるのだろうと想像してみるけど、ただその時には、ボクは六十歳を軽く過ぎている可能性もあって、すでに遅いかもしれない。

 親の死に続いて自分が死ぬことを考えてみた。

 先日、ニュース番組を見ていたら、『献体』という言葉を耳にしてテレビに見入ってしまった。簡単に説明すると、自分の遺体を解剖学の実習のために提供すると生前から申し出をすることらしく、最近はやたらと申請が多いようだ。ボクもこのまま家族も作れないで独りで生きていくのなら、ある年齢に達した時に、この献体に申し込んでおこうかなと、心の中で思いながらテレビを見ていた。ボクのことで兄夫婦に迷惑をかけたくない。ちなみに兄は故郷とは全く違う場所で家庭を築いてる。奥さんもいて、子供もいて普通に暮らしている。ボクは離れて暮らしているせいもあるけど、なるべく彼らとは接しないようにしている。困ったことがあれば力を貸すし、彼らが元気で幸せに生きていければいいと思って遠くから見守っている感じだ。

 街を歩いていると、いつかボクが死ぬのは、今住んでいるこの街になるのかなと思うことがある。ボクは故郷から関西や関東に、そして九州に流れ着いてきた。

 別に死後のことなんて、自分の意識がない状態だから、どうでもいいと思っているけど、願わくは、一緒に人生を歩んでいく同性愛者のパートナーができればいいなと思っている。でも日本という国……そして、この街に住んでいる限り、その可能性は少ないだろうなという諦めも抱いている。

<つづく>