絶対に会えてよかった<16>

玄関を開けると、すぐに母親が駆け寄ってきて、

 

「どうしたの? 何かあったの?」

 

と、心配してきた。居間のキッチンテーブルの上には、サランラップで覆われた状態で昼ご飯が残ったままになっていた。ボクが帰ってくるのをずっと待っていてくれたんだと気がつくと泣きそうになった。でも「家に帰らないで友達と公園で遊んでいた」と嘘をついた。誰かの家に遊びに行ったと言えば、相手の家に確認されて嘘がバレそうだったので、あくまで外で遊んでいたことにした。それから「遊んでいていきなり鼻血が出て服が汚れた」と嘘をついた。

 

小学生がとっさに思いつく嘘なんて、これぐらいが限界だった。

 

「本当なの?」

 

と、何度もしつこく質問された。今まで、学校が終わってから家に帰らないで遊びに行くことなんて一回もなかったから信じていなかった。ボクはひたすら同じ嘘をつき続けた。母親は教師が毎日のように生徒をボコボコに殴っているなんて事実は知らなかったし、誰かからいじめられたと勘違いしていたようだ。

 

部屋に戻ってランドセルを下ろして、カバンから教科書やノートを取り出した。何度も投げつけられたから、教科書やノートはボロボロになっていた。ティッシュを湿らせて教科書についた血を拭いたけど、紙がふやけるばかりで血は全く取れなかった。母親に血がついているのを見つかったら「気が付かないうちに鼻血がついた」と嘘をつくことにした。

 

晩御飯を食べて風呂に入って、自分の部屋に戻って独りになってから、ようやく心の底から安心できた。ベッドに寝転がってアザを眺めながら、ただ翌日は日曜日で学校に行かなくて済むという事実だけが嬉しかった。

 

翌週、クラスメイトから「あの後、大丈夫だったの?」と次々と質問された。「特に何もなくてすぐに帰ったよ」と、また嘘をついた。教師は何事もなかったかのように優しくなっていた。洗面場で血を洗っているのを目撃した先輩からも声をかけられた。「○○先生が殴ったんでしょ?」と質問されたけど「違いますよ。いきなり鼻血が出ました」と、また嘘をついた。

 

この教師がやっていた暴力が明るみになって、母親から「いつか帰りが異常に遅かった日があったけど、あなたも殴れたんじゃないの?」と質問された。ボクは「一度も殴られてなかったよ」と、まだ嘘をついていた。

 

あの教師が学校から消えて数年後、小学校の教師が生徒に対して異常な暴力を振るっていたという事件が全国各地で相次いで発覚した。それが一ヶ月近くニュースで大きく取り上げていた。ボクは「今更だな」と冷めた目でニュースを見ていた。
この暴力教師のボクらの担任期間は1年ではなかった。数年間にわたって暴力行為は続いた。

 

ボクとっては思い出したくはない、とても嫌な出来事なのだけれど、ある意味、この出来事に遭遇できたのは幸運だったのかもしれないと年を取るにつれて思うようになった。中学時代から高校時代にかけて学校を休みがちになっていたけど、母親は教師や学校に対して全く関心を失ってしまったからだ。

 

そのおかげで僕は本当に助けられたと感じている。

 

僕が「学校を休みたい」と言えば事情を訊かずに欠席の連絡をしてくれるようになっていた。つい先日も電話で話している時に、「小学校の時代の事件から、学校なんてどうでもいいと思うようになった」とか「参観日も全く行かなくなったわよね」と笑いながら話していた。普通の親であれば子供が学校に行かないのであれば心配するかもしれないけど、僕の母親は「学校なんて馬鹿馬鹿しい」と笑い飛ばしていて、ほとんど心配していなかった。

 

ボクが脇道に逸れることを母親は積極的に許してくれた。

 

この点はすごく影響が大きくて、ボクが同性愛者だと自覚して、世間一般の人たちと同じような人生が歩めないと気が付いた時に「無理して他の人たちと同じ生き方をしなくていいんだよ」と支えになってくれた。

 

この話はボクがゲイになったのと関係がないから、1年以上前に書いた文章(カミングアウトの代償<4>)で少しだけ触れただけだった。ここまでこ詳しく全く書くつもりはなかった。

この前、年末年始に実家に帰省した際、母親がアルバムの整理をしていた。その時、例のクラスの集合写真を目についた。運動場の遊具の前に整列したクラスメイトの顔を見ていると、みんな悲壮な顔をしていた。笑っているクラスメイトは一人もいなかった。
その写真をじっと見ていると、母親から「本当にあの時、何もなかったの?」と、過去と同じ質問をされた。ボクは「一度も殴られてなかったよ」と昔と変わらず嘘をついた。すると母親から「あなたは何か嫌なことがあっても、いつも独りで黙って我慢してばかりいる」と言われた。

 

そういえば中学時代や高校時代にもいろいろあったけど、誰にも相談しないで我慢してきたなと思った。ボクは酒をほとんど飲まない。タバコも吸わない。ギャンブルもしない。薬はもちろんしないし、何か嫌なことがあった時、何かに依存して紛らわせようとしたことがない。それはきっとボクを肯定して受け入れてくれる人が、その場その場でいたからだと思う。

 

ボクは写真を眺めながら、やっぱりいつか文章に書こうという気持ちになった。

 

 

ボクは妖怪くんと抱き合ったまま過去に起こった出来事をかいつまんで説明した。

 

<つづき>