不定期に書き進めている『ゲイとしての居場所づくり』の章の続きを書くことにする。この章に関しては、現在進行形で続いていて、書き進めていると「数ヶ月前に書いていることと全く逆じゃない?」と指摘が来るような事態にもなってしまうかもしれないけど、そうなったらそうなったで謝るしかない。
この章を、最後に書いたのは2ヶ月以上前だった。
まだ夏になる前のことで、それから後も色々なことがあった。
本当は誰々と会ったとか、もっと詳しく書いてあげたい……
でも、このことは何度か書いてるけど「ボクと実際に会った人からすれば、そういうのって嫌じゃないかな?」と思っている。
ボクが文章を書くと、どこどこで食事したとか。どこどこで遊んだとか。そういったことだけを書くことはないはずで、そうなってくるとボクがどう感じたのか内面的なことが多くなってくる。それを文章に書かれた人が読んでいるとか、読んでいないとか別にして、少なくともボクは公の場で書きたくない。
どうせ書くのなら。もっと先。「思い出」になってから書こうと思う。
このブログを読者からすれば、ボクがリアルタイムで何を思って悩んでいるのか知りたいのかもしれないけど、残念ながら書くつもりはない。今はまだ、ボクの家に置いてあるメモ帳に書いて棚に眠ったままにしている。いつかボクの中で「思い出」になるのを棚の中で待っている。
先日、道を歩きながら音楽を聴いていると、ある曲の歌詞が耳に入ってきて、思わず立ち止まってしまった。
傷ついてもつまずいても過ぎ去れば物語
人は誰も過ぎた日々に弁護士をつけたがる
裁かないでね叱らないでね思い出は物語
私どんな人のことも天使だったと言うわ
中島みゆき 『ノスタルジア』
若い頃には、実感として感じなかったけど、今はこの歌詞に書かれていることが痛いほど分かる。
福岡市のLGBTに関連したイベントは、ボクの目の付く範囲では開催されていない。福岡市にあるNPO法人などでは小さなイベントが開催されているようだけれど、学生や社会人になったばかりの若者向けのイベントのようで、ボクには関係がない。3月や4月は騒がしかったけど、同性パートナーシップ制度が始まって一段落着いたのだと思う。
今のところ知っている範囲のイベントは2018年11月4日に冷泉公園でLGBTのパレードだ。
このパレードに顔だけでも出してみようかと思っていたのだけれど、「博多・天神落語まつり2018」のチケットが当選してしまった。「パレード」と「春風亭昇太」のどっちを取るのかと言えば、それは勿論「春風亭昇太」を選択するに決まっている(過去にも書いてるけど、ボクは春風亭昇太が割りと好みのタイプなのだ。20歳年上だけどね)。
どっちのイベントも福岡市で開催されるから、昼は落語に行って、朝と夕方にパレードの方に顔を出してみようかと思っている。ただパレード自体には参加するつもりはない。
そんなこんなで近状を書いてきたけど、いきなりだけど本題に入る。
このサイトは始めた当初は
自分のため90% 読者のため10%
ぐらいの割合で文章を書いていた。
その間、いろいろな人からメールをもらった。「毎日更新しているのを楽しみにしている」「サイトを知って数ヶ月間、毎日読むのが習慣になっています」と書かれた内容が多かった。アクセス数だけ見ても、数百人が毎日読んでくれているのが分かる。
そういった状況で文章を書き続けていると、割合が変化していって、
自分のため60% 読者のため40%
と変化して、最近は逆転して、
自分のため40% 読者のため60%
ぐらいの割合になっている。
もととも以前から文章を書く時に「この文章は誰々さんに向けて書こう」と、密かに決めながら書いていたので、自分のために書くという割合が減ってきても違和感を感じなかった。
ただ、違和感はないけど、
もうこのサイトはボクの手から離れてしまってて、ボクだけのものじゃないんだな。
という思いが強くなっている。
<つづく>