絶対に会えてよかった<56>

「もしかして医師ですか?」
「そうだよ」

机の上に散乱しているレントゲンの画像やパソコンの画面に映った発表資料の内容を眺めると、誰でも「医師だろうな」と気がつく。ついでに若い彼が一人で高級ホテルに宿泊していることにも合点がいった。

かなり時代を感じさせるけど、今ならパワーポイントにレントゲンやCTの画像や動画を貼り付けて、USBメモリでファイルを持ち運びすればいいかもしれない。もしくは学会が用意しているクラウド上にファイルをアップロードしておけば済む話だ。でも当時は、まだパソコン本体にフロッピーディスクのドライブがついている時代だった。まだADSLも普及しつつある状態で、勿論、USBメモリなんて便利な物も存在しなかった。

「その先輩のことが今でも好きなの?」
「好きです」

ビールを飲んで少し酔っ払ってしまったのか、臆面もなく恥ずかしい発言ができてしまう。

この先輩については過去に書いてる(『同性への憧れと恋愛の境界線』を参照)。

「その先輩は、もともと陸上部に入ってて怪我したことが、きっかけで医者になりたいと思ったらしいです」
「俺も志望理由は似たようなものかもしれない。だから整形の医師になった」
「そうだったんですね」

ボクはその言葉を聞いて嬉しくなった。これも時代を感じさせるけど、今なら整形外科じゃなくてリハビリ科になってるのかもしれない。まだ当時はリハビリなんて言葉は今ほど一般的じゃなかった。

その先輩が陸上部に所属していたのは、彼の母親からボクの母親を経由して聞いて知っていた。そして友達の家で、たまたま彼が書いた卒業文集を読む機会があって、彼が医師になりたいと思った理由を知った(同性への憧れと恋愛の境界線<11>)。

ボクにとって彼は永遠の憧れ人だった。

ボクが好きになる人は、彼に似た顔や似た雰囲気を感じさせる人ばかりだった。それが虚構だと分かっていても、好きにならざるをえなかった。ボクは今でも一年に一度は彼の名前をネットで検索しては、彼がどこの病院に勤務しているのか確認している。それに彼はボクにとって好きになるのタイプを決定付けただけじゃなかった。彼のようにひたむきに真面目に生きていきたいと思うようになっていた。ボクにとっては人生の手本のように感じていた。

そういえば最近読んだ小説の中にカウンセラーが出てきて、自分のことを同性愛者だと認識している高校生に対して、早急に判断するのは止めるように諭すシーンが描かれていた。思春期には、同性に対して「尊敬」を感じてしまって、それを「恋」だと勘違いしてしまうことが多々ある。だから相手に抱いている感情が「尊敬」なのか「恋」なのかを見極める必要がある。もし同性愛者として生きていくのであれば社会的に苦労するから、よく考えて欲しいと言っていた。

確かにボク自身が当時を振り返っても、どこまでが「恋」だったのか「尊敬」だったのかはっきりとは分からない。

でもボクは彼と出会った高校時代から、ずっと彼のことが好きなままで、ずっと彼のようになりたいと思っていた。

<つづく>