去年の秋ごろに彼と電話で話していた時のことだった。
僕は「志村ふくみさんの本を夏ごろからよく読んでいる」と言った。少し間があってから、彼は「その人のことを教科書で読んだかもしれない」と言った。数日後、彼女が書いた本を読んでいると、彼の言った通り、「ある文章」が中学校の教科書に取り上げられたと書かれていた。国語の教科書に取り上げられてから、子供たちが染物の体験学習によく来るようになったと書かれているのを見つけた。僕は「全文を読んでみたい」と思って、彼女の本に書かれていた作者と文章のタイトルを手掛かりにネットで調べた。
それは大岡信さんが書いた『言葉の力』という文章だった。
人はよく美しい言葉、正しい言葉について語る。しかし、私たちが用いる言葉のどれをとってみても、単独にそれだけで美しいと決まっている言葉、正しいと決まっている言葉はない。ある人があるとき発した言葉がどんなに美しかったとしても、別の人がそれを用いたとき同じように美しいとはかぎらない。それは、言葉というものの本質が、口先だけのもの、語彙だけのものではなくて、それを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにあるからである。人間全体が、ささやかな言葉の一つ一つに反映してしまうからである。
大岡信『言葉の力』の全文
志村ふくみ『語りかける花~藤原の桜~』の全文
僕は旅行が終わってから福岡に帰ってきても、あの書軸を見た衝撃が忘れられなかった。
日本民藝館、片野元彦展。絞りは開いて見るまでわからない。計算と偶然が作るその紋様はいつまで見ていても飽きない。4枚目の書「悲願」は柳宗悦が片野元彦に贈ったもの。「絞を悲願とせられるよう祈る」との手紙が添えられていたという。 pic.twitter.com/vSAMu4WjGq
— 青野 尚子 (@najapan) April 1, 2019
柳宗悦からあれほど美しくて力強い言葉を受け取った片野元彦が、どこかに書き残した言葉があると思って探した。
「悲願」ということばの重み
或時私の仕事場に先生からお手紙とお軸の小包がとどけられ、さっそく開封するとお軸の文字は「悲願」の二文字であり、お手紙には「絞りを悲願とせられるよう祈る」としたためられてあった。此のお軸の文字を拝見した瞬間、私は頭から冷水を浴びた如く全身の血が止った思いで言い表わしようの無い戦きを覚えた。
形として目には見えなくても「言葉」も民藝の一つのように感じている。
<つづく>