おのぼり二人紀行<25>

先日、彼から「女性が書いた文章が好きだよね」と言われた。

 

彼の指摘通り、僕は女性が書いた文章が好きだ。志村ふくみさんにしても石牟礼道子さんにしても、女性が書いた本を読んでいることが多い。過去にも書いたけど、このサイトの文章、特に過去の出来事について書いた文章は、女性の児童文学作家の文体を意識して書いているつもりだ。なぜか分からないけど、女性の書いた文章の方が相性にいいようで、そもそも女性が書いた文章は、女性だとか、男性だとか、そういった性別を超えた視点で書かれた文章が多いように感じている。もちろん男性にもそういった視点で書ける人もいるのだけれど、なぜか僕には女性の方がもっと高い視点から書いている人が多いように感じている。

 

例えば、僕は中島みゆきが好きだけど、彼女が書いた詞も、女性の視点で書かれた作詞よりも、男性の視点で書かれた作詞の方が好きな曲が多い。「僕」という視点から書かれた方が好きな曲が多い。もしくは女性でも男性でもない『時代』のような性別を超えた視点から書かれた曲の方が好きだ。あまりマニアックな曲について詳しく書かないようにするけど『糸』という曲も、そういった性別を超えた視点で書かれた曲だと感じている。

 

今でこそ有名になってしまったけど『糸』という曲を始めて聞いたのは中学1年生だった。

 

僕は歌詞の2番目に出てくる「ささくれ」という言葉の意味が分からず辞書で調べてみた。

 

そこには「心の荒んだ状態」というような説明が書かれていて、その説明を読んで歌詞の流れを解釈できるようになった。でもその後、辞書に「ささくれだつ」という言葉の説明も合わせて書かれているのに気が付いた。そして「物の先端や表面、また、つめの周辺の皮などが細かく裂けたり、めくれたりすること」というような説明書きを読んだ。

 

僕は「もしかして”ささくれ”という言葉が『掛詞』になっているのではないか?」と感じた。2番目の冒頭からの歌詞の流れだけで内容を読めば、「ささくれ」という言葉は「心の荒んだ状態」という意味で解釈できる。ただそれだけではなく曲のタイトルになっている『糸』という言葉に掛かっているように感じた。ささくれは本来であれば爪辺りの皮がめくれて細かく裂けるような意味で使われることが多いけど、糸の先が細かく裂けてささくれ立つ。もしくは糸で編んだ布。糸の集合体である布の表面がささくれ立つという意味と掛かっているように感じた。次の小節の歌詞の冒頭が「こんな糸がなんになるの」と書かれているのを読んで、「こんな糸」という言葉が、糸の先端が細かく裂けてしまったささくれ。もしくは糸で編んだ布の表面が細かく裂けてしまったささくれ。糸が細かく裂けてほつれてしまっている状態を指しているように感じた。それと「心の荒んだ状態」を意味を重ねて詞を書いているように感じた。

 

この解釈は正確ではないかもしれない。間違っているのかもしれない。でも文章を読んで書かれた言葉をどう解釈するのかは自由だ。

 

そういった言葉の存在が中学時代の僕にとっては面白かった。

 

そういえば東北の震災が起こってから『糸』を耳にする機会が増えたけど、これから先の時代、『糸』だけでなく『瞬きもせず』という曲の視点が大切だと思っている。この『瞬きもせず』は、特にヒットしたわけでもなくあまり知られていない地味な曲だ。シングルCDで発売された『糸』のA面になっていた『命の別名』という曲は、最近になってカバーする人が少しずつ現れてきて再評価しつつある。その『命の別名』の数か月後にリリースされたのが『瞬きもせず』だ。

 

僕は「差別」の反対は「平等」ではなく「尊重」だと思っている。

 

<つづく>

 

男性と女性の視点に関して、中島みゆきと糸井重里が『地上の星』という曲について興味深い対談をしている。

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