ゲイブログを書くこと。書き続けること<2>

 最近、考えてることがある。

 それは「文章を書くこと」と「文章を書き続けること」の違いについて。

 ボクが書き始める前からも、ゲイブログを書いている人がいたし、ボクが書き始めた後からも、ゲイブログを書き始めた人もいた。未だに書き続けている人もいるし、残念ながら書くのを止めてしまった人もいる。

 文章を書くのがうまければ書くことはできる。
 
 でも文章を書くのがうまくても、文章を書き続けることができるかは別だと思う。

 更新が止まってしまったサイトを眺めながら、この2つの能力って、求められるものが違ってるよなと、つくづく思う。

 更新を止めてしまったのには、いろいろな背景があると思うけど、

 きっと文章を書くというよりも、もっと大事なことができたのだろう。

「そのサイトの管理者にとっていい方向に進んで、文章を書く必要が無くなっていたらいいな」と思いながら、更新が途絶えたサイトを眺めている。

 少なくとも、ボクは文章を書くことにハマっている。だから当分は書くのを止めることはないだろう。

 少し前まで、メモ帳をパラパラとめくって書き留めた走り書きをもとに文章を組みたてたり、だいたい頭の中で出来上がっていた話を文章に起こしていた。ようは既に、ある程度出来上がっていることを文字に起こして、サイトに公開している感じだった。

 つまり、自分がそれまでに考えていたことを中心に文章に書いていた。

 でも、ここ最近の書き方が変わってきた。

 自分が今何を考えているのか分からない状態で、自分が何を考えているのか確認するために文章を書いている。

 パソコンの前に座って、頭の中に横切ったことを文字にしている。だからメモなど何も見るものがなくて、書き始めてから、どこで文章が終わるかなんて分からない。そもそも書き終わって見たとして、文章として成り立っているのかすら分からない。そんなスリル感を味わいながら書いている。

 ただ書き終わった後に読み返してみると「こんなことを考えてたんだ」と自分で書いた文章を読んで驚いている。そんな感じで、自分が今何を考えているかを知るために文章を書くことを目的にしている。

 過去のことについて書く頻度が減ったのは、こんな風に書き方が変わったのが理由だ。もちろんこれからも過去のことは書くつもりだ。

 きっとこれからも書き方や書く目的は変わっていくと思う。

 このサイトを通して、実際に誰かと会って話していて「サイト立ち上げて文章を書いてみたらどうですか?」と訊いてみる。

 すると相手の人は「いやー自分はちょっと」というような反応をする。

 その反応を見て、「そりゃそうだよな」と心の中で思う。

 ただ、少なくともボク自身にとっては文章を書く。文章を書き続ける必要があった。

 そりゃ。ボクだって文章を書くのが恥ずかしい。

 だって、自分の内面のかなりの部分をさらけ出して書いて、それを多くの人に読ませているなんて、なんだか人前でオナニーしてるような気分にもなってくる。露出マニアであれば興奮するのかもしれないけど、もともとボクは恥ずかしがり屋だ。だから相変わらず自分が書いた文章に関して、感想のコメントをもらったりすると、なんだか照れくさくて体がムズムズしてくる。

 でも、そんな恥ずかしがり屋なボクだけど、今は文章を書いていて楽しくてしょうがない。

 毎日、一時間弱だけど自分の内面と向き合って、文章を書くのが大切な時間になっている。

 先日、たぬ吉さんとAIR-Jさんがtwitter上で、「居場所」について討論していた。「現実の世界」と「非現実の世界」のどちらに「居場所」を求めるかについて、それぞれの意見を述べあっていた。彼らの文章を読みながら、「非現実の世界」を「居場所」に含めるのなら、ボクにとっては、毎日文章を書くこと自体が「居場所」になってると思った。
 
 いつか、この「居場所」から離れていって文章を書き続けることを止める日が来るかもしれないけど、でも今のボクにとって、自分の内面と向き合いながら文章を書き続ける時間は、大切な「居場所」になっている。

<終わり>