カミングアウトした過去と他人との距離感<5>

大学時代から社会人時代の前半までの間、学校や職場以外の面でも人と深く関わること避けていた。この時期、誰かが作り上げた創作の世界。作品の世界にのめり込むことで時間をつぶしていた。そうやって時間をつぶすことで孤独感を感じないようにして現実から目を背けていた。

まず大学時代だけど、クラシック映画ばかり見ていた。

それも毎日数本ペースで国内も海外も問わずにひたすら白黒映画ばかり観ていた。朝起きて夜寝る直前まで1日5本近く観ている日もあった。1920年代から1970年代くらいの作品を中心に観ていた。今までカラー映画を観た本数よりも、白黒の映画を観た本数の方が断然に多いと思う。ただクラッシック映画に関心を持っている同級生は皆無で、変人扱いされてしまった。映画に関係ない話でも「流行」といったものには、全くと言っていいほど関心がなかった。

そして社会人時代になってから、今度は児童文学の本ばかり読んでいた。

国内も海外も問わずにひたすら児童文学の作品ばかり読んでいた。この時期、クラシック映画の熱はひと段落して、平日は仕事が終わってから喫茶店に籠って児童文学の本を読み続けて、休日も朝から喫茶店に籠って読み続けていた。すぐに押し入れの中は児童文学書であふれかえってしまった。児童文学の作品は文庫本で出版されていないのがものが多いので保管場所も取ってしまって、どんなに整理しても押し入れの中に納まりきらなくなって、収納の限界を超えて本が雪崩になって崩れてきた。

自分でも何でクラシック映画と児童文学の本にのめり込んだのか理由ははっきりと分かっていない。これは直感でしかないのだけれど「不変性」という言葉がキーワードになっているように思う。

ボクは時代が変わっても価値が変わらない物が好きだ。

時代を超えて、現在も残っているクラシック映画に関しては言うまでもないけど、児童文学に関しては、ちょっと不思議に感じるかもしれない。ボクは児童文学の内容や文体に関して不変性を感じている。児童文学というと子供向けという感じがするかもしれないけど、全く違っていて大人でも十分に楽しめる作品が多い。

人間は大人になるにつれて、それぞれの時代の価値観にどうしても縛られてしまう。児童文学にはそんな大人になる前の人間が共通して持っている楽しいと思う感覚を閉じ込められているように感じている。国内の児童文学もいいけど、特に海外の作品を翻訳した児童文学は今読んでも色あせていない(ロバート・ウェストールやローズマリ・サトクリフなど)。それに古い作品であっても現在書かれている作品と大して文体が変わらないように感じている。これが大人向けの小説となると30年から40年前に書かれた小説の文体と、現在の小説の文体では時代の流れの影響を受けているせいか、かなり違うように感じる。時代を経ても変わらない文体に魅力を感じてしまう。

ちなみに以前も少し書いたけど、このサイトを書き始めるにあたって参考にした文体は児童文学だったりする。ゲイの世界を生々しく書くとどうしても暗くなってしまうので、あまり暗くならないように児童文学の本の文体を参考にした。特に女性の児童文学作家が持っている柔らかい文体を真似して書き始めた。

男性が書いた児童文学の文体は、例えば主人公が男の子だと暴力シーンや口調なども厳しい残酷な描写が多かった。子供の残酷性が生々しく描かれている作品が多くて、むしろそちらの方が子供らしくて現実的で好きではあるけど、自分の性格には合わないように感じた。

逆に、女性が書いた児童文学の文体は、女の子を主人公にするよりも特に男の子を主人公にして描く場合、柔らかい描写が多くて、おっとりしている自分の性格に合っているように感じた。そういう理由から女性の児童文学作家の文体を意識して書くようになった。もちろんプロの作家にはとうてい及ばないレベルだけど、彼女たちの小説を写経して文体を真似するように意識して書いた。

大学時代から社会人時代の前半の時期、「クラシック映画を観る」のと「児童文学の本を読む」のに、かなりの時間とお金を使っていた。家に籠ってからクラシック映画を観るか、喫茶店に行って児童文学の本を読むことに、ひたすら日々を繰り返していた。

今になって振り返ると、その投資に無駄になっていないように感じていて、こうやって毎日文章を書いたりできるのも、具体的には説明できないけれど、その頃の経験が下地になっていると感じている。

それと大学時代から社会人時代にかけて、もう一つのめり込んだ趣味がある。

<つづく>