ライナーノーツ<26>〜言葉の力〜

「人が変わるのは本質的なことが分かった時」

 

言葉について文章を書こうと思ったのは3年近く前でした。当初、このサイトはゲイブログというカテゴリーにあったので、こういった文章を書くのを躊躇っていましたが、最近、ゲイとは違うことを書く機会が多くなってきて、今更体裁を整える必要性もないだろうと思うようになりました。むしろ、そうなるように仕向けてきたのもあります。もう僕の関心は「ゲイ」については、ほとんど関心が無くなっていて、子供の頃から興味があった、もっと本質的なことに関心が戻ってしまっています。

 

言葉について「ようやく書き終えることができた」という気持ちだけど、まだまだ書き表せないことがあって、そもそも「言葉」をテーマに書くということ自体が、言葉で表現することが不可能なのだけれど、それでも書き続けていくしかないと思っています。語り得ないものだからこそ、言葉で表現したいという気持ちが湧き起こってきます。いくつか既に書き足したいこともあって、また追加していきます。

 

「言葉は人間の道具ではない」のですが、一方で、書かれた言葉、話された言葉は、必ず人間を通して発せされます。そうやって発せされた言葉は、その人の精神、その人自身でもあります。聖書冒頭に「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」と書かれていますが、まずは言葉で書いて、語り初めてみなければ何も始まらない。ただ諦めずに言葉で書いてみるしかないのだと思っています。それにしても聖書を書いた人は、言葉の真実を知っていたのだなと驚かされるばかりです。古典と呼ばれて読み継がれている本にこそ、人間にとって本質的なことが書かれているのだと気がつかされます。僕は既存の宗教には、身内の葬式の時くらいしか縁がないのですが、「言葉が人間を使っている」という事実に気がついてから、人間を超えている言葉の存在に気がついて畏れが出てきました。宗教とは違う、もっと別の宗教のようなものに大きな流れと繋がっていると感じています。

 

「ゲイについては関心がなくなった」と書いたものの、一方で気になっている人がいます。僕は一度でも「良い」と認めた人は諦めずにしつこく執念深く見守っています。その人と言葉を交わすとか交わさないとか、そんなこと関係なく気にかけています。付き合っている彼から「Aiぽい」だの「ロボット」だの「感情がない」だの言われていますが、一方で本質的なものに勇気を出して向き合おうとしている人に対しては気になってしょうがないのが本音です。

 

言葉について書いてきましたが、やっぱり僕はゲイの誰かに伝えたくて書いているみたいです。

 

最後に。

 

あなたが文章を書き始めたのは何故ですか?

 

あなたが書いた言葉の意味が分かる人と、既に出会っているのかもしれないし、これから先出会うのかもしれない。誰でもいいのではなくあなたの言葉を理解してくれる人、言葉を共にする人と出会いたいのではないですか?

 

もうどうすればいいのかあなたは分かっているはずです。