言葉の力<5>

僕の中で中学時代から高校時代にかけて「言葉の解釈の多様性」が楽しくてしょうがない時期だった。

 

現代文と古文以外の授業は、ほとんど聞いていなかった。それ以外の授業では、家から持ってきた本を教科書とノートの隙間に挟んで隠しながら読んでいた。おかげでテストの点数は酷いものだった。

 

高校時代。現代文の教師が「文章を書けるようになりたければ新聞のコラムを毎日写経したらいい。もし写経した人がいたら私までノートを出してほしい」と言っていた。べつに「文章を書きたい」という願望があった訳ではないのだが、僕は「なんだか面白そう」と思って、翌日から言われた通りに写経していた。自宅で購読している新聞だけでは飽き足らず、親戚が購読していた他紙のコラムまで切り抜いてもらい写経していた。それから卒業するまで毎日、写経していた。ついでに写経した文章に対する感想まで書いていた。

 

そのうち「この詩に対して、これこれと先生は授業中に説明されていましたが、僕はこういうふうに解釈しました」と、その詩に対する解釈と、その根拠を書きはじめた。詩だけではなく俳句や短歌などの自分なりの解釈をノートに書いては先生に提出していた。

 

今になってみると、なぜここまでしていたのか恥ずかしくなってくるのだが、その教師からは「その解釈は素敵です」や「詩などの解釈は本来自由なものです。あなたの解釈を大切にしてください。」といったコメントが書かれた返却された。教師と文通のようなものをしていた。ただ、こうやって「言葉の解釈の多様性」を楽しいと思う一方で、ますます「真理」という言葉の存在が頭の中にひっかかっていった。

 

高校時代。古典の教師とも不思議な関係になっていた。

 

その古典の教師は授業で僕をやたら当ててきた。ことあるごとに「この文章の意味は何だと思うか?」と当ててきたのだけれど、僕自身は真面目に答えているつもりだったのだが、大体において頓珍漢な回答をしていたらしく、それが可笑しかったらしい。他の生徒をそっちのけにして楽しんでいた。その回答を聞いた同級生からも笑われてばかりいた。古典の授業中はいじられキャラと化してしまった。それでも、なぜか古典の教師は僕のことを気に入ってくれていたらしく、すれ違うと笑って挨拶をしてくれた。他の授業中にコツコツと窓を叩く音がして外を見ると、その教師が僕に向かって手を振っていたりした。

 

僕自身あまり学校には行っていなかったのだが、この二人の教師は僕の存在を受け入れてくれた。

 

僕の書く言葉や話す言葉を面白がってくれた。

 

大人になった今でも文章を写経する癖は残っている。好きな文章を写経したり、好きな詩を見つけては写経している。

 

気になった言葉を見つけると、昔はノートに手書きでメモして読み返していた。今はキーボードで入力してスマホやパソコンで読み返すことができるようにしている。そのようにして書き写した言葉を読み返していると不思議と力が出てくる。

 

この頃、新しい言葉を覚えるたびに自分が成長しているような気がしていた。僕は人生を「言葉と出会う旅」のように感じている。誰かが書いた言葉だったり、話した言葉と出会って「分かる」と感じる。そういった言葉に出会えることが最上の喜びだ。

 

例えば、ある詩があったとする。その詩の書かれていることがさっぱり分からなかったとする。でも一週間後、一か月後、一年後、あるいは数年後に、その詩に書かれていることが突然に分かる時がくる。

 

「この詩が分からない」と感じている状態から「この詩が分かる」と状態が変化する時。僕には、この「分かった」という瞬間が快感以外の何物でもなかった。

 

<つづく>