石牟礼道子と渡辺京二

渡辺京二が書いた『もうひとつのこの世《石牟礼道子の宇宙》』を読んだ。以前から石牟礼道子と渡辺京二の関係について気になっていたからだ。

 

この二人の関係に、僕は人間関係の根源的なものがあるように感じていた。

 

両者ともに家族がある。それなのに渡辺京二は執筆活動や水俣病の闘争を援助するため、自宅に石牟礼道子を招いて泊めていた。渡辺京二の娘は、子どもの頃から家にいる石牟礼道子のことを「親戚のおばさん」だと認識していたらしく、後になって全く血筋も関係もない他人と聞いて驚いたらしい。二人の関係は石牟礼道子が亡くなるまで続いた。

 

その本で渡辺京二は石牟礼道子との関係について、こんな一節を書いていた。

 

近代的な書くという行為を超える根源性を持つと信じたからこそ、いろいろお手伝いをしました。そういう大変な使命を担ってきた詩人だからこそ、お手伝いに意義を感じたのだと言えば、もうひとつ本当ではありません。

  

私は故人のうちに、この世に生まれてイヤだ、さびしいとグズり泣きしている女の子、あまりに強烈な自我に恵まれたゆえに、常にまわりと葛藤せざるをえない女の子を認め、カワイソウニとずっと思っておりました。カワイソウニと思えばこそ、庇ってあげたかったのでした

 

「カワイソウニ」

 

もしかしたら石牟礼道子が苦海浄土を書き始めた気持ちの一端にも、この「カワイソウニ」という気持ちがあったのではないだろうか。

 

石牟礼道子自身は、こんな一節を書いていた。

 

自分の周りの誰か、誰か自分でないものから、自分の中のいちばん深いさびしい気持ちを、ひそやかに荘厳してくれるような声が聞きたい。普通の日常でも人間お互いいかなる関係であれ、他者と心溶け合う瞬間を待ち続けて生きているのではないでしょうか。

 

誰かが誰かを憐れむとき、憐みを受ける人だけでなく、憐れんでいる本人も寂しいという気持ちを抱えているのではないだろうか。寂しい気持ちを分かち合うことができるのは、この「憐れみ」ではないだろうかと考えている。