許すこと

許すことができる人と許すことができない人の違いは何だろう。

 

例えば水俣病について、チッソがやったことに対して許さないと怒りを抱いていた人たちがいた。そんな人たちの中から、時が経るにつれて「チッソを許す」と声が上がるようになった。そういった許すことができる人の中に「チッソは私であった」と言う人もいた。自分は環境汚染による被害者だが、自分もまた環境汚染をしている社会の恩恵を預かって生きてきたことに気がついた人がいた。加害者の中に、自分自身がいるのを見つけた人がいた。

 

これは水俣病とは違う次元の話だが、僕は子どもの頃に、自分がゲイであることをカミングアウトしていた。そういった中で、イジメに近いような嫌がらせを受けたことも多々あった。ただ、そういったイジメをしてくる人たちに対して、恨むという気持ちを持つことができなかった。個人と個人であれば仲良く話すことができるのに、個人と集団となった時、人の態度は豹変する。僕には「この人たちは僕と同じだ」という気持ちが強かった。立場が違えば、僕も同じことをしなかったとは言い切れず、恨むどころか、むしろ親近感に近い気持ちを抱いていた。

 

緒方正美という水俣病患者がいる。

 

その人は許すことについて以下のように語っていた。

 

多くの人たちはいったん恨んだことは許しはできないとため込んでしまうから、どんどんどん自分が苦しくなっていくわけです。人を恨み、ある時は自分が苦しみ、その中で、一つ一つ問題が解決していったら、その一つ一つに対して、許しはできることに気が付いた。 

 

10年間の戦いの中で気が付きました。私は人を恨むためにこの世に生まれたわけじゃないんだ。水俣病という出来事と出会い。チッソを恨み、行政を恨み。世の中を恨んでしまったけれども、恨みを取り除く方法だってあるんだ。人のために、人に正直に生きるのではなくて、自分自身に正直に生きるということです。水俣病になって良かったとは決して思いませんけども、水俣病になったことを私は後悔していません。

 

 

また別の機会で緒方氏は「いきなり『赦す』ことはできません。憎んで憎んで憎み通すことが条件です」とも語っている。

 

生きていれば辛いことや嫌なことは沢山起こる。

 

そういった時、「許すことができる人と許すことができない人の違いは何だろう?」と、僕の中で一つの問いかけがある。

 

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