ライナーノーツ<29>~LGBTの社会活動の関わり~

「あの熊本のパレードに参加していたら、今頃どんな道を歩いていただろう?」

 

恐らく、あのままパレードに参加したとしても、僕のことだから途中で嫌になって別の道に逸れただろうと確信している。2018年3月31日から4月1日の出来事を書いたものだ。この数か月は、暗中模索の真っ最中だった。それまで文章を書くことしかしてこなかったけれど、実際に行動を起こす時期に入っていた。

 

この章の冒頭に「ある場所に行った」と書いている。付き合っている彼と出会ってしばらく経ってから知ったのだけれど、彼も僕と出会う前に同じ場所に行ったことがあるらしい。そして彼も同じように何もなく時間が過ぎて、その場所を後にしたらしい。その事実を知った時、「お互いに似たもの同士だから付き合うことになったんだ」と納得した。結局、僕たちは集団で行動するというのが苦手だということだ。一人で考えて一人で行動するのが全く苦じゃない。

 

この文章の中で、熊本のパレードに顔を出したことを書いているけど、こういったイベントに参加したのは同年の秋に福岡市で開催された九州レインボープライドが最後になった。あれからもう少しで2年近く経つけど、もうイベントに参加することはないだろう。やっぱりLGBTの活動には興味が持てない。

 

例えば、誰かが差別的な発言をしていたとする。その差別な発言をしている人に向かって「あなたは差別している」と言う。これは差別的な発言をしている人を差別することになるのではないだろうか?

 

このような差別の連鎖から、最初から関与せず脇道に逸れた方がいいと感じている。

 

僕は議論というものが無駄だと感じている。顔を合わせて面と向かって議論するのも無駄だと感じているけど、ネット上で議論するのも尚更に無駄だと感じている。僕が「頭がいい」と感じる人は議論をしない。議論の土俵にあがらない人だ。自分の言いたいことを一方的に主張して、さっさとその場から去っていき、後は自由に解釈してくれ、言い訳はしない、というような人だ。このサイトはコメント欄を消している。twitterなどのアカウントも持っていない。僕と連絡を取る手段はメールしか残していない。これらは全て議論する場を無くすためにしている。誰かと議論する時間があれば、もっと別のことに時間を使いたい。もし相手に自分の意見を聞いて欲しいのなら議論ではなく、この文章の最後に書いた「創作」のように、もっと別の形があるはずだ

 

先ほど「脇道に逸れた方がいい」と書いた。例えば「LGBTのカップルが賃貸アパートを借りることができない」といういった話もあるけど、僕たちは中古住宅を買った。それを自分たちの手でなるべくDIYで修繕しようとしている。周囲の人たちは「最近、流行りのシェアハウスね。友達同士で一緒に作業して仲がいいね」くらいの認識でしかない。少し極端な例かもしれないけど、そういった感じで少し見る角度を変えれば脇道に逸れる方法は見つかるはずだ。

 

僕は脇道に逸れて、もっと別の道を探していく。