言葉の力<9>

以前、NHKでLGBTをテーマにした番組が放送されていた。その番組の内容自体は、そこまで興味が無かったのだけれど、『薔薇族』という雑誌について説明が流れる途中で、思わずリモコンを手にして一時停止ボタンを押してしまった。

 

テレビ画面には、その雑誌の読者から寄せられた、いくつかの文章を映されていた。

 

僕はテレビの前に座り込み、目で読み取れる範囲の文字を隅から隅まで読んだ。投稿欄に書かれていたのは、ゲイの人たちの出会いを求めた内容だった。そこに書かれた言葉に心を打たれた。

 

昨年の5月。付き合っている彼と一緒に関東まで旅行に行った。その旅行3日目。新宿2丁目のゲイバーに行ったのだけれど、あまり会話に参加していなかった。実を言うと、店に入ってしばらくの間、そのバーに置かれていた雜誌を読んでいたからだ。読み終わった後、頭の片隅で目の前の会話とは別のことを考えていた。

 

あの雑誌に書かれていた言葉。

 

それ以降のゲイ向けの出会い系の掲示板やアプリなどの書かれた言葉。

 

この言葉の差は何なのだろう?と。

 

同じ「出会い目的」で書かれた文章であるはずなのに、僕は後者で心を打つ言葉と出会ったことがない。紙上で書こうが、インターネット上で書こうが、言葉の価値は変わらないはずだ。書く媒体の違いが問題ではない。それに言葉の価値は時の流れ、世の中の流れ。流行といったものには左右されるものではない。

 

言葉自体に差がないとすれば、差があるのは人間の方だ。

 

以前、このサイト上でゲイアプリを「もう使わない」ということを書いた。あれから2年くらい経ったろうか、今はもっと違う心境になってしまった。僕の今の心境は「もう使わない」ではなく「もう使えない」といった所だ。もし付き合っている彼と別れることがあったとしても二度と使うことはない。

 

もう僕は言葉の安売りなんてできない。

 

自分から安い言葉を使う人と交える気にはなれない。

 

この章の冒頭に書いたが「自分が言葉を使って書いたのだろうか?」と考え続けて、あることが分かってしまったからだ。この事実に気がついてから、自分の中での世界の認識が一変してしまった。自分から安い言葉を使っておいて、良い出会いがないのは当然だ。

 

言葉の価値は不変だ。僕たちは安い言葉を使う人を「あの人は安い人」だと認識する。安い言葉を使うということは、自分を安く売ることと同じだ。もし、その人の言葉を安く感じるのであれば価値を貶めているのは、言葉を使う人間の方だ。過去から大切に引き継がれてきた言葉の価値を活かすのも殺すのも人間次第だ。

 

僕には有名になろうだとか、お金を稼ぎたいだとか、そういった目的のために言葉を使うことが理解できない。それは言葉の本質とはかけ離れたものだ。

 

以前、「文章を書いているとかっこよく書いてしまう」と気にしているゲイの人がいた。僕から言えることは「そう感じるのならのなら、最初から書かない方がいいことだよ」ということだ。以前、僕は「僕の存在を、彼の道具にしてくれてもいいから、どうにかしたいと思っています」(『ゲイとして生きる君へ』の章)なんてことを書いたけど、その言葉通りの生き方をしていると自信を持っている。それくらいに自分が書いた言葉に対して真剣に生きている。このサイトの文章に書いていることと、僕が実際にやっていることが違っていれば、付き合っている彼は嘘を許さないし、とうの昔に別れているだろう。

 

話す言葉、書く言葉が、自分の生き方とかけ離れていることは、本人にとっても苦しいだろう。

 

<つづく>