言葉の力<12>

初めて自由に文章を書いたのは高校時代だった。

 

学校からの課題としてテーマを決められた作文のようなものではなくという意味での自由だが、A4一枚の用紙が渡されて自由に書いていいというものだった。それをまとめて一冊の文集にして生徒一人一人に配布していた。どういった目的の文集だったのかも覚えていないのだけれど、絵を書いてもよく、文章を書いてもよかった。

 

僕はその文集に「同性が好きなこと」をためらいもなく書いていた。

 

今となっては、どうしてそんなことが出来たのか分からない。

 

最初から最後まで同性が好きなことを妄想丸出しの内容で、明るく面白おかしく文体で書いた。文章を読んでいる人が楽しくて笑って欲しいと思いながら書いたのを覚えている。このサイト上でも、たまに書いている妄想丸出しの文章。あの妄想文章のスタイルは、高校時代の文集から始まっていた。

 

よく同性が好きなんて書いたと思う。

 

その文集は、どこかの塾でも出回ったらしく他校の生徒まで知れ渡ってしまった。気がつくと下級生でも知っている人がいた。下校途中で、見知らぬ他校の生徒から「あの文集はお前が書いたのか?」と声をかけれたこともあった。書いたのは事実なので認めていたのだが、興味を持ってくれる人もいれば、怖がっている人もいた。普通に考えれば、文集上でカミングアウトする人なんて珍しいだろう。今の時代なら、スマホで写真撮影されてSNSであっとう間に拡散してしまうだろう。ちなみに僕自身は文集を家に持ち帰って両親に見せるわけにはいかないので、学校から帰る途中、公園のゴミ箱に捨てた。よくよく考えてみると同級生を経由して、両親の耳に話が届いてもおかしくないのだけれど、当時はそういった可能性は全く考慮していなかったのが不思議だ。

 

彼らが「あいつはホモ」だと影で笑われても構わないと思った。

 

笑うなら笑わせておけばいいと思った。

 

ただ、「文章を読んで笑って楽しんでもらいたい」という思いが強かった。

 

誰から言葉で傷つけれたことがあった。僕も言葉で誰かを傷つけたこともあった。誰とも口をきかずに、言葉を使わずに生きてみようとしたこともあったが無理だった。どちらにしても言葉を使わないと生きてはいけないと思った。

 

でも、やっぱり言葉を使うのなら「他の人に少しでも楽しんで欲しい」と思った。

 

僕はどう言葉を使っていけばいいのだろうか?

 

と考え続けた結果だった。

 

言葉は人を傷つけもするし癒しもする。その両面があることを意識しながら、使っていくしかないと思った。

 

<つづく>