ゲイとして生きる君へ

ある人に伝えたいことがあります。

 

その人が誰かは書きません。ただ、その人に宛てて文章を書きたいと思いました。

 

僕とあなたは文章に書かれた言葉を通して繋がっている関係です。

 

あなたの年齢は知らないけど、僕より若いことは知っています。僕があなたに何かできることがあるとすれば自分が迷いながら、考えたこと、経験してきたことを文章に書くことだけです。ただ、そんなことが、どこかであなたの何か役に立つことがあるかもしれないと思い書くことにしました。

 

僕が文章を書いていく中で見つけた、一つ目の問いかけは「ゲイとして生きていく中で共通項をどうやって探していくのか?」でした。

 

これは文章を書いていく中で意識するようになった問いかけでした。

 

その問いかけに対する回答は「僕のことを誰かが見つけてくれるまで毎日文章を書き続けていていく」というものでした。問いかけに対する答えというものは、難しい物ではなく、真新しい物ではなく、地道で平凡で平易なことのように思えます。

 

それと僕の中で、もう一つ問いかけがありました。

 

その問いかけは、そもそも文章を書く前。僕が大学時代にゲイの世界に足を踏み込んでいてから、ずっと感じていたものでした。

 

僕は今、ある人と付き合っていますが、彼も同じ問いかけを持っていることに気が付きました。この人と一緒になら、その問いの答えを探していけるように感じました。思い返せば、今までゲイとして生きてきて、最初の頃から感じていたその問いかけを、誰かに向かって話したことは一度もありませんでした。自分の中で「この人たちと話しても仕方がない」と感じて躊躇していたのだと思います。

 

僕が毎日文章を書く必要性を感じなくなったのは、この二つの問いかけに対する自分なりの答えを見つけたからです。一つ目の問いかけは、はっきりと答えを見つけることができました。もう一つの問いかけについては、長い時間をかけて一緒に答えを探していけるような人と出会えました。

 

それと、もう一つ毎日文章を書く必要性を感じなくなった理由があるのですが、これは最後に書きます。

 

僕はゲイとしての側面。ゲイ以外の側面の両方で、いくつか問いかけを持っています。ただ、今ではゲイとしての側面の問いかけよりも、ゲイ以外の側面の問いかけの方が、ずっと多くなってきました。

 

僕たちは休日になると、最近購入した土地でほぼ毎日作業をしています。

 

つい先日、彼の友人から「そんなことをしていて楽しいですか?」と質問をされました。

 

僕が付き合っている彼は、ゲイであることをオープンにしていないので、彼の友達の前で、僕たち二人はただの「友達同士」ということになっています。休日になると朝から夕方まで作業をしている僕の姿を見て、彼の友人はそんな質問してきました。彼の友人からすれば「友達のために休日を丸一日潰してまでやって楽しいのかな?」と疑問に思ったみたいです。

 

彼の友人から見れば、つまらない作業を真剣にやっているようにしか見えないのかもしれません。でも僕にとっては、胸に秘めているいくつか問いかけに対する答えを見つけるためにやっています。退屈どころか楽しい時間です。

 

僕には実家がありますが、心落ち着ける「ふるさと」と言えるものではありません。

 

去年は、年末年始を除けば一度しか帰省していません。これから先も実家に戻って長く暮らすことはないでしょう。そう遠くない将来に両親が亡くなれば実家に帰る理由も無くなります。そうなると今生きている福岡に自分の手で「ふるさと」に似た場所を作っていくしかありません。僕にとって、彼との作業は自分の「ふるさと」を作っていることにつながっています。

 

話しは少し変わりますが、付き合っている彼は子供の頃から持っている趣味があります。趣味というか特技というか特性というのか難しいのですが、僕には「この人の特性をどうにかして活かせるようにしてあげないと社会の損失だ」という思いがあります。僕の存在を、彼の道具にしてくれてもいいから、どうにかしたいと思っています。彼と付き合い始めてから一年が経ちましたが、僕の中で誰のために時間を使うかが大きく変わってきました。両親のために使う時間は少なくなり、反対に彼のために使う時間が多くなりました。

 

ある日、彼と寝た後に同性と肉体関係を持っているのに両親に対して罪悪感じていないことに気が付きました。ゲイの世界に足を踏み出した大学時代から、ずっと感じていた罪悪感が消えていることに気が付きました。両親のために使う時間も減って、本当のことを打ち明けることはできないけど「きっとこの人と一緒にいるなら両親も喜んでくれる」と感じています。

 

僕は人生の中で流れに身をまかせて自分なりに問いかけを見つけて、その問いかけに対する自分なりの答えを見つけることが楽しいです。そうやって自分なりに何かを取り組んでいるほうが、誰かがプログラムしたゲームなどをしているよりも、よっぽど楽しいです。彼との作業も決して自己犠牲ではありません。誰かが作ったゲームであれば、どうやって行動していくかの選択肢は数えることができます。でも、どうやって生きていくのかは数え切れないほどの選択肢があります。どんな人と一緒にいるのかによっても選択肢は変わりますし、僕自身がどんな言葉を使って話すだけでも選択肢は変わってきます。

 

僕には趣味らしい趣味がありませんが、ただ僕は人間が好きなのだと思います。

 

人間がどう考えてどう行動していくのかに興味があって、そういった生き方の一つ一つに興味があるようです。

 

僕は一度だけ転職をしてます。

 

転職する前までの僕はどちらかというと「自分は人間が嫌い」だと思っていました。思い返せば、中学時代から高校時代にかけてカミングアウトをしていたこともあり、いろいろと経験しました。それから社会人になってからは職場でホモ扱いされたりもしました。そんな経緯もあって「そりゃあ。人間嫌いになってもおかしくない」と自分でも思っていました。その上、人付き合いも下手なのも理由の一つでした。ただ、転職前と転職先に何人かから「神原って人間が大好きだよね」と言われました。僕は自分で認識している考えと全く違っていたので、「この人たちはいったい僕の何を見ていってるんだろう?」と思ったのですが、それから自分の内面を向かい合っていくうちに、「確かにその通りなのかもしれない」と納得するようになりました。

 

「人付きが苦手なこと」がイコールで「人が嫌いということ」にはならないと気がつきました。

 

もしかしたら人付き合いが苦手だと悩んでいる事自体。

 

その悩むという心の奥底で誰かを求めているのかもしれない。

 

そのことに気が付いてから「僕は人間が好きだ」とはっきりと認めるようになりました。それを周囲にもはっきりと言うようになりました。もちろん人付き合いは苦手なままです。

 

僕の中でゲイとしての側面に対する問いかけは消えつつあります。最近は、他の人が書いているゲイブログも読まなくなってきました。かなり限られた数の人しか読んでいません。多分、今の僕が探している言葉は、古くから読まれ続けている古典、もしくは今後も、ずっと長く読まれていくであろう本の中にあるように感じています。そういった状態なので、僕の書いている文章自体もゲイブログでもなんでもない状態になっています。

 

それでも、このサイト上に文章を書いているのは理由があります。

 

僕たちは、社会に問いかけをしているのだと思います。

 

国や地方や企業などに対して問いかけをしました。もしくは一人ひとりの個人に対して問いかけをしました。それぞれの立場から僕たちの問いかけに回答をしてくれました。

 

僕たちが社会に対して課題を投げたのであれば、その課題について僕たちも自分なりに考えて、何らかの答えをする責任や義務を背負っているように感じています。

 

それがどんな形の返答であっても構わないと思います。

 

以前の僕であれば「そんな問いかけを投げた覚えはないよ」と無関心で終わりだったのですが、自分が書いている文章が誰かに影響を与えていることを知ってから考え方が変わりました。

 

僕一人ができることと言えば限られていて、この社会の中で、一人のゲイとして、一組のゲイのカップルとして、どんな選択をしてどんな生きているのかを文章に残していくだけです。それが毎日の更新を止めてもポツポツと文章を書き続けている理由です。僕自身が始めた問いかけではないけれど、一緒に考えていかなくてはいけないものです。

 

僕がこのサイトに文章を書き始めたのも、「ゲイとして生きていて先の見えない状況から抜け出すために文章を書かざるをえない」という結論に至ったからです。「生きていくためにせざるをえない」「文章を書かざるをえない」という衝動に似た気持ちが沸き起こってから文章を書く方が長続きすると思います。そういった気持ちが沸き起こってこないのであれば、手を止めてじっと自分と向き合いつつ待っていたほうがいいと思います。機が熟するまでじっくりと待つことも大切だと感じています。物事を効率化して時間を短縮すればするほど、なぜか早く時間が過ぎ去っていくように感じます。そんな忙しい毎日の中、たまたま心に余裕がでてきたかもしれません。毎日のように過去を振り返る時間を持てたことは、僕にとって価値がある時間でした。

 

文章を書き始めた最初の頃は、書くためのモチベーションを維持するために、アクセス数を求めてもいいかもしれません。ただ、ある時期からアクセス数を気にしないようにした方がいいと思います。僕のサイトには「発展場」などをキーワードに検索して辿り着く人が多いですが、でも、そういった人たちのアクセスが数千件あろうとも何の意味もありません。数か月に一人でもいいので最初から最後まで文章を読んでくれる人の方が何よりも大切です。

 

これはゲイブログに限った話ではないですが、アクセス数を追い求めるのであれば、目につきやすいような煽るタイトルや文章を書けば、ある程度は手に入れることができます。

 

ただ読者はちゃんと気が付いていると思います。

 

インターネット上ではコメントを投稿して感想を声に出す人だけが目につきますが、一方で声に出さない人の方が圧倒的に多いです。数百倍、数千倍の声に出させない人たちの存在に目を向けるべきだと気が付きました。アクセス数やコメントやいいねボタンに関係する人との繋がりを求めて文章を書くことは、そこまで大切ではないと思うようになりました。僕は「短期的な目標」と「長期的な目標」は相反するものだと思っています。短期的な目標を追えば追うほどに長期的な目標は逃げていくものだと思っています。

 

文章を書き続けて気が付いたことがあります。

 

それは「一人で文章を書き続けていくこと」の大切さです。

 

どこかの集団に属することなく一人で自分の足で立って文章を書くことの大切さです。

 

一人で文章を書いているのは孤独なように思えます。

 

でも書いている本人は孤独には感じませんでした。

 

僕自身を書いて振り返ってみると、二年以上毎日文章を書いてきましたが、決して孤独ではありませんでした。そのことに気がついたのは文章を書き始めて一年以上経ってからです。むしろ遠く離れて生きている人たちが、過去に出合った人たちが、自分のすぐ隣にいるように感じていました。誰かに対して思いを寄せて書くことが、こんなにも孤独感を癒してくれるものだとは、文章を書くまで気が付きませんでした。

 

今の時代を生きている人々は、一人でいる時間と、他の人と交流する時間の両方を求めています。どちらか一方ではなく両方を求めているように感じています。文章を書くことは、どちらの意味でも満たしてくれるように感じています。一人でなければ文章は書けません。でも文章を書いているある瞬間に、今は側にいない人が身近にいるような感覚が何度もしました。昔懐かしい人。遠く離れて生きている人。今はこの世にいない人。そういった目に見えないものを身近に感じることができるなんて、それまでの現実主義の自分には考えられませんでした。そして一人で文章を書きながら「自分はこう考える」「自分はこう感じた」「自分はこうやって生きる」と何かを言い続けていれば、いつか誰かが声をかけてくれます。そうやって共感してくれる人こそ深く繋がっていく人だと感じています。

 

僕は他の人たちから遠ざかった場所にいるからこそ書ける文章があるように感じています。

 

他の人が書いた本を読めば、自分の問いかけの答えや、生きていく上での支えとなる言葉を見つけることができます。僕自身、今でも過去の人たちが書いた文章の中に答えをもらったり支えをもらっています。でも自分の内側から出てきて書いた言葉は、他の人が書いた言葉を読むよりも、もっと強い力になります。

 

以前も書きましたが、僕はゲイブログは出会いのツールの一つだと思います。

 

でも一方でこれから先はゲイブログを通して、沢山の人と出会いたくありません。

 

僕自身、大学時代から何人ものゲイと人たちと会ってきました。社会の分断化が進んでいますが、恐らく僕がゲイでなければ、こういった様々な立場の人たちと出会うことはなかったはずでです。これらの経験は僕にとって大切なものです。ただ、これから先は、もう他者と沢山つながるよりも、自分自身や身近にいる周囲の人たち。遠く離れていても心のどこかで共鳴できる人たち。と深くつながることに時間を使っていきたいと思っています。

 

今までゲイの人たち書いた文章を沢山読んできました。

 

その中で、いくつか気が付いたことがあります。

 

他の人が書いた ゲイブログを読んでいて、肉体的な結びつきを重視している人。精神的な結びつきを重視している人。と分かれているように感じています。もちろん両者をはっきりと分けていない人の方が沢山います。

 

僕はどちらかというと後者の方を重視しています。

 

ただ、決して肉体的な結びつきを否定しません。

 

そういった側面を拒絶するのではなくバランスを取ることが大切だと思います。僕にとっての精神的な結びつきは、肉体的な結びつきに入る前の準備段階です。以前、何かの本を読んだ時に「猫が獲物を食べようと伏せながら、襲おうかどうしようかとタイミングを狙っている状態がプラトニックラブだ」と言っている人がいましたが、僕にとっても似たようなものだと思います。肉体的な結びつきと精神的な結びつきの、どちらが先にあるのかが違うだけで繋がっています。どちらも大切な物だと思います。

 

ただ、一つ感じたことは人を愛する方法はたくさんあるということです。これは文章を書いていくうちに気がついたのですが、もしかしたら精神的な結びつきで愛する方法は、肉体的な結びつきよりも、数え切れないくらいに沢山の愛する方法があるということが、最近になって分かってきました。

 

人を好きなる際、自分とどこか似ている場所がある人を好きになるように思います。

 

根本で通じ合っている所がある人。その根底があって、その上でどこか違っている部分もある人。その違っている部分が尊敬できるような人。根底に同質がありつつも細かい部分で異質な部分を持っている人を好きになるのではないかと思います。全部同じ人を愛することはできないし、全部違う人も愛すことができません。自分の根っこ通じ合っている人を探すためにも、価値観が似ている人と出会うためにも文章を書いてみるのはいいと思います。

 

以前、ある人から「神原さんは破滅願望があるのかもしれない」 という指摘を受けました。

 

その人は僕が書いた文章を読んで、僕が惹かれる人のタイプから、そのように感じたみたいです。

 

ただ僕にとって、その言葉は意外なものでした。それからしばらくの間、じっと考えてみたのですが、僕がそういう人を求めているのは「生きたい」という願望があることに気が付きました。むしろ破滅願望とは逆だったのです。

 

僕は自分の言葉で考えることができる人が好きなのだと思います。正確に表現する言葉を持ち合わせていないのですが、自分の言葉で論理的に物事を考えることが出来る人が好きみたいです。ただ、僕はそういった側面に惹かれながらも、同時に全く逆の側面を持っている人に強く惹かれるようです。

 

ちゃんと物事を考えることができるのに「どう考えてもこっちのほうが生きやすいよね」と感じているタイミングで、なぜか逆方向の道に進んでいこうとする人がたまにいます。そもそも脇道に逸れてしまって、自分が道から外れていることに気が付いていない。もしくは、道から外れていることに気が付いても元の道に戻る気がない。もしくは戻りたくても戻れないと悩んでいるような人。そういった生き方をしている人に惹かれるみたいです。

 

論理的でありながら、非論理的な側面を同時に持ち合わせている人。

 

一見、矛盾している人。

 

それが、どんな人なのかと言うと、例えば感情が豊かで激しい人です。

 

論理に考えながらも、ある局面において感情を優先させる人。

 

僕が付き合っている彼は他の人たちより喜怒哀楽の感情の起伏が少しだけ激しいです。特に「哀しみ」「悲しみ」の感情が強いです。彼と出会って気がついたことがいくつかあります。それは怒りと哀しみの感情は、とても似ていることです。怒りの底に哀しみがあったり、哀しみの底に怒りがあったりと、まるで表裏一体のように思うときがありました。もしかしたら、悲しんだり怒っている本人も気が付いていないかもしれません。この二つの感情は「喜」や「楽」に比べて、あまり表に出さないほうがよい感情とされているように感じています。

 

僕からすればささいなことに怒ったり哀しんでいる彼の頭を撫でながら「もしかして僕は『強い』のではなく、ただ『鈍い』だけなのではないだろうか?」と思うことがあります。

 

今の時代、感情を表に出す人は煙たがられるように感じます。それに感情を表に出す人に対して、どこか馬鹿にする空気があるように感じます。ただ僕は「殺された感情たちはどこにいったのだろう?」と思います。中島みゆきの『おだやかな時代』という曲に「おだやかな時代 鳴かない獣が好まれる時代 標識に埋もれて僕は愛にさえ辿り着けない」というくだりがあります。1986年に発表された詞ですが、それよりも前から、この流れが始まっていたのかもしれません。1970年代の前半に学生運動が終わった辺りを起点に、少しづつ何かが変化してきたように思っています。

 

最近、僕は知識を増やすことは少し置いておこうと思うことになりました。これから先は「知る」ということよりも「感じる」ことを、大切にしていきたいと思うようになりました。新しく知識として何かを知ることは、自分が必要になった時に調べればいいと思います。新しく知ることに力を傾けるよりも、自分の周囲の人に心を向けたり、心を向けられていることを感じることに力を傾ける方が、ずっと大事だと思うようになりました。

 

ちゃんと自分で考えられる人という前提はあるのですが、僕はそんな人たちが感情を表に出す姿を目にすると心が惹かれます。そういった人が発する言葉の中に、自分が捨ててしまった大切なものがあるように感じます。僕は中学時代や高校時代に他の人たちに比べてあまり学校に行っていません。あることがきっかけで母親が学校に対する関心が薄くなって「学校に行かなくてもいい」と言ってくれました。子供の頃に逃げることと、逃げる場所を与えてくれた両親に感謝しています。ただ僕は大学時代から社会人になるにつれて「このままでは社会で生きていけない」と感じるようになり変わっていきました。その過程で、せっかく持っていた大切なものを捨て去ってしまったように感じています。

 

これから先、今まで生きにくいと感じていた人たちが少しづつ生きやすくなって、生きやすかった人たちが少しづつ生きにくくなるような逆転が起こっていくように感じています。僕は付き合っている彼から「Aiぽい」と言われるような合理主義のモンスターなのですが、合理的に考えれば考えるほどに非合理的なものの存在に目が向きます。資本主義的な合理主義を突き詰めていくと、そもそも人間である必要がないように考えが行き着いてしまいました。

 

僕は人間らしさというか「一人ひとりが持っている人間くささ」を見つけた時に嬉しくなります。

 

感情から出てきた言葉は真剣なもので、正しいとか間違いを超えて大切に思えます。そんな相手の真剣な言葉には、僕も真剣な言葉で答えていきたいです。それを馬鹿にしたり茶化したりしたくはありません。もし言葉が見つからないのであれば、ただ黙って側にいたいと思います。

 

そもそも僕は「正しい」とか「間違い」といったことに対して、あまり興味がないみたいです。それより重要なのは「正しかろうか間違いだろうが『自分はこう思う』と言い続けること」のように感じています。もう想像でもいいので「自分はこう感じる」とか「自分はこう生きる」と言い続けて行動している人の方が、「正しい」や「間違い」を判別することよりも重要な気がしています。そういった自分の意見を言い続ける人と話しながら、僕は「なるほど」「この人はこう考えるのか」「こう感じたのか」と感じます。その「なるほど」という感触が強い人ほど、恋愛感情を抱くかは別としても心惹かれます。

 

一方で逆に「こうあるべきだ」と型にはめようと押し付ける人たちがいます。

 

ゲイの人であれば「早く結婚しないの?」といった言葉を浴びせられた経験が誰しもあると思います。そういった実態のない世間の常識を押し付けられて傷つけられた経験が誰しもあるはずです。だからこそ「こうあるべきだ」という社会の常識の押し付けを、同じゲイの人からゲイの人に向けないでください。

 

朝、通勤しているときに、ある女の子とよくすれ違います。その女の子は障害者です。半身麻痺なのか、身体をひきずりながら車椅子を使わずに小さな歩幅でゆっくりと歩いています。近くの障害者用の学校に通っているみたいで、何キロもある道を、雨の日も冬の寒い日も夏の暑い日も歩いて通学しています。僕はその女の子の歩いている姿に心惹かれます。なぜか彼女に目を惹かれてしまいます。どうして心が惹かれるんだろうと考えていたのですが、僕は彼女の歩く姿が美しいと感じているみたいです。自由に動かせない身体を引きずりながら歩いている彼女が、何の不自由もなく歩いている人たちよりも美しいです。

 

僕は「生きやすさ」と「生きにくさ」の相克している姿に惹かれます。だから「生きにくい」と感じているところを、大切にしてほしいと思います。その生きにくいと感じているところが、その人にとっての人間くささだと思うからです。

 

そもそも僕は「愛情」より「情愛」の方が強いのかもれません。

 

自分から誰かを必要として側にいて欲しいと思うよりも、自分を必要としてくれる誰かの側にいたいと気持ちの方が強いようです。別に相手がゲイである必要はなく、職場の同僚でも誰でもいいみたいです。自分自身が楽しいというよりも、自分の近くにいる人の方が楽しそうにしている方が、僕自身も嬉しいです。これはセックスでも同じことが言えるようです。僕は自分が気持ちいいと感じるよりも、相手が気持ちいいと感じて喜んでくれる方が嬉しいようです。

 

ここ最近、僕は「人が変わっていく」ことについて考えてきました。

 

周囲の人たちを見ながら「『変わっていく人』と『変われないでいる人』の差って何なのだろう?」と、ずっと疑問に思ってきました。

 

ここでいう「人が変わる」とは、新しいことをあれこれ手をつけてみたりするのではなく、お金を沢山手にするのではなく、職場が変わったとかではなく、どこかに場所を引っ越したとか、目に見える形で変わることではありません。これは自分自身の経験を通して感じたことですが、僕は大学時代からゲイの世界に踏み出してから、全く状況が変わりませんでした。かれこれ十五年以上かかって初めて状況が変わってきました。ここで僕が「変わってきた」と書くのは、彼と付き合い始めたことを指していません。彼と付き合い始めるもう少し前のことです。

 

人が本質的に変わるのは、自分自身に向きあった時のように感じています。

 

自分でも不思議なのですが、文章を書いていくうちに、何を喜びとするのか対象が変わってきました。最初の頃は、自分のために書いていました。ある時期から自分以外の人たちのために書くように変わってきました。もしかしたら、こうやって文章を書く前に彼と会っていても、うまく関係を築くことはできなかったように思います。文章を書く前は、どこか他人よりも自分のことを重視していました。それが文章を書き始めてから、しばらくたって考え方の優先順位が変わってきたように感じます。生活の全てを誰かに捧げることはできなけど、文章を書くことや生活の一部の時間を、他の誰かのために使いたいと思うようになりました。

 

文章を書きながら自分と向き合い続けて、自分の強い部分。弱い部分、好きな部分。嫌な部分。傷つけられたこと。傷つけたこと。そういった自分の過去を少しだけ受け入れることができたように感じられました。ちょっぴりですが自分がどんな人間なのか知ることができたように感じます。そして、ちょっぴりですが自分のことを好きになれたように感じました。いい加減、過去の自分に振り返っていれば反動からなのか、これから先の未来について思いが向くようになりました。過去は未来への道標なのだと思うことができるようになりました。書くことは過去を受け入れて、現在をどう考えているかを認識して、未来をどうしたいのか考えていく行為なのかもしれないです。

 

そして文章を書きながら、自分が誰かから愛されていること、愛されていたことを再確認できたように思います。両親や家族や友人たちから愛されという記憶の再確認ができました。そもそも僕は子供の頃にカミングアウトしていて、同性の同級生に毎日のように告白をしてたりと、大人になって振り返れば恥ずかしい限りなのですが、そんな僕を拒絶せずに友達として付き合ってくれた人たちがいました。

 

彼らが僕に向けてくれた気持ちを、今度は僕から別の誰かに向けていきたいと思えるようになりました。

 

過去に向き合うことを他人に強制することはできません。それは本人の気持ち次第です。物事は単純ではないので、変わったからといって良いとも限らないし、変わらないことが悪いとも限りません。さらに良い方に変わったと思っても短期的に見るのと、長期的に見るとでは違うだろうし、変わってどうなったのか最終的に結論が出るのは、死んだ後に自分の人生を振り返った時かもしれません。ただ、ちょうど自分と向き合って変わろうとしている彼を見ていて感じるのですが、そうやって恐る恐るでも足踏み出して歩き始めた人の前には、それを手伝ってくれるお節介な人たちとの出会いが自然にあるように思います。そんな時、僕は人間って素敵な生き物だって思えます。

 

最後になりますが、毎日文章を書く必要性を感じなくなった理由です。

 

あなたに初めて会った時「この人はどこか僕に似ている」と思いました。まるで恐る恐る文章を書き始めた頃の、数年前の自分の姿を見ているように感じていました。どこか不器用な生き方をしていて、いじらしく感じました。

 

僕はあなたに感謝しています。

 

僕には文章を書いていく中で大切にしている人が二人います。二人の存在がそれぞれが別の側面で支えてくれました。

 

一人は僕が文章を「書く」という面で大切にしている人です。

 

もう一人は僕が書いた文章を「読む」という面で大切にしている人です。それがあなたです。

 

僕の書いた文章を読んで、コメントやメールで感想をくれた人は沢山いたのに「あなたとその人達と何が違うんだろう?」と、ずっと考えていました。

 

あなたと他の人たちの違う点。それは僕の書いた言葉を読んで受け取ってくれたこと。そして、その言葉を自分なりに解釈して自分の言葉に置き換えて文章を書こうとしていることのように感じます。あなたの書いた文章を読みながら、僕の書いた文章を読んで、それを自分なりの噛み砕いて取り入れようとしていることが感じられました。僕はそういった箇所を見つける度に微笑んでいました。恐らく文章を書いた本人たちだから気づける箇所なのですが、二人だけの秘密を共有して、まるで共鳴しているような気持ちになりました。あなたのような人が僕の書いた文章を読んでくれていることを知って、自分の中の孤独な部分が癒されたように感じました。

 

よく「書いた文章は誰かに読まれることによって完成する」と言いますが少し違うと感じました。僕は「書いた文章は誰かに読まれ、読んだ人が次の文章を書くことによって完成する」と感じました。

 

僕はあなたの書いた文章を読んでいて「一つの終着点にたどり着いた」と感じて嬉しくなりました。

 

僕自身、付き合っている彼や両親や兄や友人や教師から沢山言葉を受け取り、本を読んだりして数多くの言葉を受け取ってきました。それを種や水や肥料にして自分の言葉を育ててきました。僕たちは子供を残していくことは難しいですが、僕自身を通過点にして贈り物として後の世代に言葉を残していくことができると感じました。言葉に残して分かち合っていくのなら誰にでもできると感じました。

 

きっとあなたは、この文章を読んで「もしかして自分に宛てて書いてるんじゃないだろうか?」って感じたかもしれません。それあたっています。こんな形で返信を書いてしまいましたが、これから先、個別にメールの返信を書くことはありません。ただ、これから先も僕が書く文章に「もしかして自分に宛てて書いてるんじゃないだろうか?」と思うことがあったら、それも絶対にあたっています。

 

僕があなたの書いた文章を読んで、あなたに惹かれたように、どこか別の場所でもあなたの惹かれている人がいるはずだよ。

 

とりとめもなく思いついくままに文章を書きましたが、この文章は僕にとって戦友である、あなたへの贈り物です。

 

言葉と言葉にならぬものを込めて感謝します。