問いに問われる永続性<1>

水俣病

 

小学校時代。学校の視聴覚室に集って映像を見た記憶がある。全身が痙攣している患者の映像を見た。単純に「恐い」と感じた。それから高学年になっていく中で、授業では『四大公害』の一つと簡単な説明がされるだけだった。試験では、ただ「水俣病」という言葉を記入すれば良く、それについて考える必要もなかった。ただ「水俣病」という言葉を目にする度に頭の中で映像がよぎった。

 

そんな中、2年前。たまたま手にした石牟礼道子の『苦海浄土』という本をきっかけに「水俣病」に関連した本を読むようになった。

 

このサイト上で文章を書いている通り僕は「ゲイ」だ。

 

一見、「ゲイ」と「水俣病」では全く関係がなさそうではあるが、僕はそれらの本を読みながら頭の中で重ね合わせながら読んでいた。

 

そして、それらの本を読んでいる中、ある人物の名前を度々と目にすることに気がついた。そして、その人物が書いた、ある特徴的な書籍名を度々と目にすることに気がついた。それから、その本を読んでみたいという気持ちが強くなっていった。

 

そのうち「この本は水俣病における思想の『一つの終着点』になるのではないか?」とすら考えるようになっていた。その本について断片的に書かれた文章を読み、実際に読む前から予感していた。

 

その本を出版したのは「葦書房」(あししょぼう)という福岡市に本社を置く出版社だったが、残念ながら既に潰れてしまっていて、中古市場でしか手に入らない状態になっていた。中古市場でも滅多に売られておらず非常に高額となっていた。半年近く、手が出ずに悩んでいたのだが一緒に住んでいる彼に相談したところ、福岡市の図書館に在庫があるみたいだから取り寄せができると教えて借りてきてくれた。

 

「チッソは私であった」

 

それが本の名前である。著者の名前は緒方正人。その本を読みながら「この本についていつか書こう」と決めていた。それは「書きたい」といった願望ではなく「書かなくていけない」といった義務のような気持ちを感じていた。その本に書かれたいた言葉は、僕が考えていることそのものだった。

 

ただ多くの人が手にするのは難しい状況の本について書いていいものか迷っていたし、何よりも、この本に書かれた言葉の力強さに圧倒され気持ちの整理がつかずにいた。

 

この度、その本が別の出版社から文庫本として発売されることを知った。1年ぶりに手にして再読しながら「この機会に書こう」と決めた。

 

今回は緒方正人の著書。

 

「チッソは私であった」「常世の舟を漕ぎて」

 

それら2冊の本について書き記していく。

 

<つづく>